第四話 ある日、突然の沈黙
第四話 ある日、突然の沈黙
その朝、栄治はサイレンの音で目を覚ました。
遠くではない。
すぐ近くだ。
古い安宿の薄い窓ガラスが、ピリピリと震えている。
栄治は布団の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。時計は朝七時前。廊下では誰かがスリッパを引きずって歩いている。
「またか……」
隣室の男の声が聞こえた。
栄治は重い体を起こし、カーテンを少し開けた。
灰色の空の下、赤色灯が回っている。
救急車。
パトカー。
それに白いワゴン車。
近くの古いアパートの前に、人だかりができていた。
冷えた空気の中へ出ると、吐く息が白かった。野次馬たちが小声で何か囁き合っている。
「やっぱり孤独死だって」
「発見遅れたらしいよ」
「臭いすごかったもんねぇ……」
栄治の足が止まる。
臭い。
その言葉を聞いた瞬間、第三話で見た“ゴミの城”が頭をよぎった。
アパートの前には黄色い規制テープが張られている。二階の一室の窓だけが開け放たれ、冷たい風にカーテンが揺れていた。
そこから、かすかに漂ってくる。
甘ったるく、湿った臭気。
栄治は眉をしかめた。
胸の奥がざわつく。
「すみません、通してください」
若い警官が段ボールを抱えて階段を下りてきた。後ろでは白い防護服を着た男たちが慌ただしく出入りしている。
「特殊清掃だってさ」
「うわぁ……」
野次馬の女が顔をしかめた。
「この前まで普通に歩いてたのにねぇ」
「誰も気づかなかったんだな」
栄治は無意識に二階を見上げた。
窓辺に、小さな植木鉢が並んでいた。
茶色く枯れている。
誰かが水をやらなくなって、どれくらい経ったのだろう。
「坂本さん?」
振り向くと、三浦結衣が立っていた。グレーのマフラーを巻き、心配そうな顔をしている。
「結衣か」
「大丈夫ですか?」
「何が」
「顔色、悪いです」
栄治は鼻を押さえた。
「……臭うな」
結衣も辛そうに目を伏せる。
「昨日、新聞受けがいっぱいになってて、隣の人が通報したみたいです」
「身寄りは?」
「まだわからないって」
そのとき、アパートの管理人らしき男が警察に怒鳴っていた。
「だから言ったんですよ! 最近見かけないって!」
「落ち着いてください」
「落ち着けるか! 次の入居どうするんだよ!」
現実的すぎる言葉だった。
だが、その声には焦りと恐怖が混ざっていた。
栄治は視線を逸らした。
自分でもわかる。
大家が恐れる理由。
死そのものじゃない。
“死んだあと”だ。
昼過ぎ、安宿へ戻る途中、栄治はコンビニへ寄った。弁当を手に取ったが、肉の匂いを嗅いだ瞬間、急に気分が悪くなる。
棚へ戻した。
代わりにお茶だけを買う。
レジの若い店員が「温めますか」と聞いたが、栄治は首を振った。
部屋へ戻ると、薄暗い四畳半に冷気が溜まっていた。
隣室からテレビの音が漏れている。
『高齢化社会の課題が――』
栄治は舌打ちし、テレビの声から逃げるように窓際へ座った。
向かいのアパートのベランダでは、若い母親が子どもの洗濯物を干している。小さな靴下が風に揺れていた。
生活の音。
誰かがいる音。
それが今日はやけに遠かった。
夕方、結衣が安宿を訪ねてきた。
「差し入れです」
コンビニ袋を差し出す。
「肉じゃが作りすぎちゃって」
「……気を遣うな」
「坂本さん、昼から何も食べてないでしょ」
図星だった。
栄治は黙って袋を受け取る。
まだ温かかった。
部屋に広がる醤油とじゃがいもの匂いに、急に腹が鳴る。
「いただきます」
小さな折り畳み机を挟んで、二人で座った。
肉じゃがは少し甘めだった。
「うまいな」
「本当ですか?」
「ああ」
結衣は少し笑ったが、そのあと真顔になった。
「……今日の件、気にしてます?」
栄治は箸を止めた。
「気にしないわけないだろ」
しばらく沈黙。
安宿の古い蛍光灯が、じ、と鳴っている。
「俺、思ったんだ」
栄治はぽつりと言った。
「もしあそこで死んでたのが俺でも、たぶん同じなんだろうなって」
「そんな……」
「誰も気づかない」
結衣は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
「死ぬのは別に怖くない」
栄治は味噌汁の湯気を見つめた。
「でもな」
声が少しかすれる。
「誰にも知られず腐っていくのは嫌だ」
結衣の目が揺れた。
「坂本さん……」
「妻が死んだとき、病院だった」
栄治はゆっくり話し始めた。
「看護師もいた。医者もいた。俺も手を握ってた」
白い病室。
消毒液の匂い。
細くなった妻の指。
今でも忘れられない。
「ちゃんと“見送られた”んだ」
栄治は唇を噛んだ。
「でも独りって、違うんだな」
外で風が鳴った。
窓ガラスが小さく震える。
「人間、死ぬ前に消えるのかもしれん」
その言葉に、結衣は何も返せなかった。
夜になっても、向こうのアパートにはまだ灯りがついていた。
特殊清掃の車が止まり、防護服の男たちが無言で荷物を運び出している。
古い布団。
黄ばんだ段ボール。
壊れた扇風機。
誰かの人生だったもの。
栄治は窓からその光景を見つめていた。
もし自分が死んだら。
あの鞄も。
工具も。
妻の写真も。
全部、ゴミになるのだろうか。
部屋の隅に置かれた茶色の書類鞄を見た瞬間、急にたまらない孤独が押し寄せた。
栄治はそっと目を閉じた。
遠くでまた、救急車のサイレンが鳴っていた。




