表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
老人  作者: かおるこ
4/25

第四話 ある日、突然の沈黙

第四話 ある日、突然の沈黙


 その朝、栄治はサイレンの音で目を覚ました。


 遠くではない。


 すぐ近くだ。


 古い安宿の薄い窓ガラスが、ピリピリと震えている。


 栄治は布団の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。時計は朝七時前。廊下では誰かがスリッパを引きずって歩いている。


「またか……」


 隣室の男の声が聞こえた。


 栄治は重い体を起こし、カーテンを少し開けた。


 灰色の空の下、赤色灯が回っている。


 救急車。


 パトカー。


 それに白いワゴン車。


 近くの古いアパートの前に、人だかりができていた。


 冷えた空気の中へ出ると、吐く息が白かった。野次馬たちが小声で何か囁き合っている。


「やっぱり孤独死だって」


「発見遅れたらしいよ」


「臭いすごかったもんねぇ……」


 栄治の足が止まる。


 臭い。


 その言葉を聞いた瞬間、第三話で見た“ゴミの城”が頭をよぎった。


 アパートの前には黄色い規制テープが張られている。二階の一室の窓だけが開け放たれ、冷たい風にカーテンが揺れていた。


 そこから、かすかに漂ってくる。


 甘ったるく、湿った臭気。


 栄治は眉をしかめた。


 胸の奥がざわつく。


「すみません、通してください」


 若い警官が段ボールを抱えて階段を下りてきた。後ろでは白い防護服を着た男たちが慌ただしく出入りしている。


「特殊清掃だってさ」


「うわぁ……」


 野次馬の女が顔をしかめた。


「この前まで普通に歩いてたのにねぇ」


「誰も気づかなかったんだな」


 栄治は無意識に二階を見上げた。


 窓辺に、小さな植木鉢が並んでいた。


 茶色く枯れている。


 誰かが水をやらなくなって、どれくらい経ったのだろう。


「坂本さん?」


 振り向くと、三浦結衣が立っていた。グレーのマフラーを巻き、心配そうな顔をしている。


「結衣か」


「大丈夫ですか?」


「何が」


「顔色、悪いです」


 栄治は鼻を押さえた。


「……臭うな」


 結衣も辛そうに目を伏せる。


「昨日、新聞受けがいっぱいになってて、隣の人が通報したみたいです」


「身寄りは?」


「まだわからないって」


 そのとき、アパートの管理人らしき男が警察に怒鳴っていた。


「だから言ったんですよ! 最近見かけないって!」


「落ち着いてください」


「落ち着けるか! 次の入居どうするんだよ!」


 現実的すぎる言葉だった。


 だが、その声には焦りと恐怖が混ざっていた。


 栄治は視線を逸らした。


 自分でもわかる。


 大家が恐れる理由。


 死そのものじゃない。


 “死んだあと”だ。


 昼過ぎ、安宿へ戻る途中、栄治はコンビニへ寄った。弁当を手に取ったが、肉の匂いを嗅いだ瞬間、急に気分が悪くなる。


 棚へ戻した。


 代わりにお茶だけを買う。


 レジの若い店員が「温めますか」と聞いたが、栄治は首を振った。


 部屋へ戻ると、薄暗い四畳半に冷気が溜まっていた。


 隣室からテレビの音が漏れている。


『高齢化社会の課題が――』


 栄治は舌打ちし、テレビの声から逃げるように窓際へ座った。


 向かいのアパートのベランダでは、若い母親が子どもの洗濯物を干している。小さな靴下が風に揺れていた。


 生活の音。


 誰かがいる音。


 それが今日はやけに遠かった。


 夕方、結衣が安宿を訪ねてきた。


「差し入れです」


 コンビニ袋を差し出す。


「肉じゃが作りすぎちゃって」


「……気を遣うな」


「坂本さん、昼から何も食べてないでしょ」


 図星だった。


 栄治は黙って袋を受け取る。


 まだ温かかった。


 部屋に広がる醤油とじゃがいもの匂いに、急に腹が鳴る。


「いただきます」


 小さな折り畳み机を挟んで、二人で座った。


 肉じゃがは少し甘めだった。


「うまいな」


「本当ですか?」


「ああ」


 結衣は少し笑ったが、そのあと真顔になった。


「……今日の件、気にしてます?」


 栄治は箸を止めた。


「気にしないわけないだろ」


 しばらく沈黙。


 安宿の古い蛍光灯が、じ、と鳴っている。


「俺、思ったんだ」


 栄治はぽつりと言った。


「もしあそこで死んでたのが俺でも、たぶん同じなんだろうなって」


「そんな……」


「誰も気づかない」


 結衣は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。


「死ぬのは別に怖くない」


 栄治は味噌汁の湯気を見つめた。


「でもな」


 声が少しかすれる。


「誰にも知られず腐っていくのは嫌だ」


 結衣の目が揺れた。


「坂本さん……」


「妻が死んだとき、病院だった」


 栄治はゆっくり話し始めた。


「看護師もいた。医者もいた。俺も手を握ってた」


 白い病室。


 消毒液の匂い。


 細くなった妻の指。


 今でも忘れられない。


「ちゃんと“見送られた”んだ」


 栄治は唇を噛んだ。


「でも独りって、違うんだな」


 外で風が鳴った。


 窓ガラスが小さく震える。


「人間、死ぬ前に消えるのかもしれん」


 その言葉に、結衣は何も返せなかった。


 夜になっても、向こうのアパートにはまだ灯りがついていた。


 特殊清掃の車が止まり、防護服の男たちが無言で荷物を運び出している。


 古い布団。


 黄ばんだ段ボール。


 壊れた扇風機。


 誰かの人生だったもの。


 栄治は窓からその光景を見つめていた。


 もし自分が死んだら。


 あの鞄も。


 工具も。


 妻の写真も。


 全部、ゴミになるのだろうか。


 部屋の隅に置かれた茶色の書類鞄を見た瞬間、急にたまらない孤独が押し寄せた。


 栄治はそっと目を閉じた。


 遠くでまた、救急車のサイレンが鳴っていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ