第三話 心の隙間と「ゴミの城」
第三話 心の隙間と「ゴミの城」
そのアパートは、川沿いの古い住宅地にあった。
空は白く曇り、冬の川風が冷たく吹き抜けている。土手の枯れ草がさわさわと擦れ、遠くで子どもの笑い声が聞こえた。
「ここです」
三浦結衣が指差した先には、二階建ての古びたアパートが建っていた。外壁は色褪せたクリーム色で、ベランダの柵には錆が浮いている。それでも、どこか人の暮らしの温度が残っていた。洗濯物が揺れ、小さな鉢植えが並んでいる。
「築年数は古いですけど、高齢の方も結構住んでます」
「……そうか」
坂本栄治は見上げた。
“高齢者歓迎”。
そんな文字はどこにもない。だが今の彼には、「断られないかもしれない」というだけで救いだった。
二階へ続く鉄階段を上ると、ぎい、と鈍い音が鳴る。
「部屋は角部屋です。日当たりも悪くないですよ」
結衣は鍵を回した。
六畳一間。小さな台所。古いエアコン。畳は少し焼けているが、陽だまりの匂いがした。
「……悪くないな」
栄治は窓を開けた。
冷たい空気が流れ込み、遠くで電車の走る音がする。
ようやく、“住む”という感覚を想像できた気がした。
だが、その瞬間だった。
ぶわり、と。
鼻の奥を刺すような臭いが流れ込んできた。
「……っ」
栄治は顔をしかめた。
生ゴミと湿気と、何か腐ったような臭気が混ざっている。
結衣も眉を寄せた。
「……すみません」
隣室のドアの前には、黒いゴミ袋が積み上がっていた。コンビニ弁当の容器、潰れたペットボトル、新聞紙。足の踏み場もない。
廊下の隅を、小さな黒い虫が走った。
「何だこれは」
思わず声が低くなる。
結衣は困った顔で小さく言った。
「隣のおじいさんです。一人暮らしで……」
「管理会社は何してる」
「何度も注意はしてるんです。でも……」
そのときだった。
ガチャ、と隣の扉が少し開いた。
二人とも反射的に振り向く。
暗い部屋の隙間から、痩せた老人が顔を出した。白髪はぼさぼさで、頬はこけ、分厚い眼鏡がずり落ちている。
「……うるさいな」
掠れた声だった。
栄治は思わず鼻を押さえた。
部屋の中から、さらに濃い臭気が流れてくる。湿った紙、古い油、カビ、汗。空気そのものが腐っているようだった。
「こんにちは、佐竹さん」
結衣がやさしく声をかける。
「今日は内見で……」
「また苦情か」
「違いますよ」
佐竹と呼ばれた老人は、じろりと栄治を見た。
「どうせ“汚い”って思ってんだろ」
「……」
「みんなそうだ」
ドアを閉めようとする。
その瞬間、栄治は部屋の中を見てしまった。
天井近くまで積み上がった雑誌。コンビニ袋。カップ麺。黄ばんだ段ボール。床は見えない。
まるでゴミでできた城だった。
どろりとした嫌悪感が込み上げる。
「……こんなところに住んでるのか」
思わず漏れた。
佐竹の目が鋭くなる。
「好きでこうなったんじゃねえよ」
声が震えていた。
「最初は少しだったんだ。膝悪くして、ゴミ捨て行くの面倒になって……そのうち腰も痛くなって……」
老人は咳き込んだ。
「気づいたら、こうだ」
結衣が小さく聞く。
「ヘルパーさんとかは?」
「来ねえよ」
「申請は?」
「字が多くてわからん」
栄治の胸がざわついた。
佐竹はドアにもたれたまま、ぼそぼそ続けた。
「前は教師だったんだ」
「教師?」
「中学の社会科。四十年やった」
意外だった。
目の前の老人は、ただの“ゴミ屋敷の住人”にしか見えなかったからだ。
「妻が死んでからなぁ……」
佐竹は遠くを見るような目をした。
「急に静かになるんだよ。部屋ってやつは」
廊下を風が吹き抜けた。
カサ、と積み上がった新聞紙が揺れる。
「誰とも喋らねえ。出かけもしねえ。コンビニだけだ。気づいたら、一週間声出してなかったこともある」
栄治は何も言えなかった。
胸の奥に、鈍いものが沈んでいく。
もし妻が死んだあと、会社もなくなって、体も弱って。
誰とも話さない日が続いたら。
自分だって。
そんな考えが脳裏をよぎる。
「……あんた、まだ働いてんのか」
突然、佐竹が聞いた。
「いや」
「そうか」
佐竹は乾いた笑いを漏らした。
「じゃあ危ねえな」
「何がだ」
「一人はな、静かすぎるんだよ」
その言葉が、栄治の胸に深く刺さった。
帰り道、二人は川沿いを歩いた。
夕方の空は鉛色で、水面が冷たく光っている。
「……すみません」
結衣がぽつりと言った。
「何が」
「せっかくの物件だったのに」
栄治はしばらく黙っていた。
「いや……部屋は悪くなかった」
「でも隣が……」
「ああ」
風が吹く。
川の匂いがした。
「気味悪かった」
正直に言った。
「俺、最初あの人見て腹立ったんだ。ちゃんとしろよって」
「……はい」
「でも違うんだな」
栄治はゆっくり歩きながら呟いた。
「あれは怠けた結果じゃない」
結衣は黙って聞いている。
「崩れるんだな、人間って」
その瞬間、自分の声が少し震えていることに気づいた。
「坂本さん……」
「俺も紙切れ一枚で断られて、宿戻って、一人で飯食って……ああやって少しずつ崩れていくのかもしれん」
喉の奥が詰まった。
夕暮れの川面を見つめながら、栄治は初めて怖くなった。
死ぬことじゃない。
誰にも気づかれず、少しずつ人間でなくなっていくことが。
それが何より恐ろしかった。




