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老人  作者: かおるこ
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第十話 1Kに灯る光

第十話 1Kに灯る光


 秋の風が、ひだまり荘の廊下を静かに吹き抜けていた。


 坂本栄治は、共同階段の手すりを雑巾で磨きながら、小さく腰を伸ばした。


「坂本さん、また掃除してる」


 二階の住人の声が飛ぶ。


「気になっただけだ」


「大家さんより働き者だねぇ」


「余計なこと言うな!」


 管理室から大河内厳の怒鳴り声が返ってくる。


 だが、すぐあとに住人たちの笑い声が重なった。


 夕方前のひだまり荘は、どこか柔らかい空気に包まれていた。


 ベランダでは洗濯物が揺れている。


 カレーの匂い。


 テレビの音。


 子どもの走る足音。


 ここは古い。


 壁も薄い。


 冬は寒いし、階段は軋む。


 だが、以前のような“死んだ静けさ”はもうなかった。


「坂本さん!」


 下から三浦結衣が手を振る。


「また頼みたいことあるんですけど!」


「今度は何だ」


「事務所の椅子壊れました!」


「お前んとこはすぐ壊れるな」


「坂本さんが直してくれるからです」


 栄治は鼻を鳴らした。


「便利屋じゃない」


「でも来てくれるでしょ?」


 その言い方に、栄治は思わず笑ってしまう。


 数ヶ月前なら考えられなかった。


 誰かに必要とされる感覚。


 それが今、この古びたアパートには確かにあった。


 夜。


 ひだまり荘の小さな共有スペースでは、自然と人が集まるようになっていた。


「これ、お裾分け」


「ありがとう」


「坂本さん、この前直してくれた棚まだ大丈夫ですよ」


「そりゃそうだ」


 テーブルの上には煎餅とみかん。


 湯気の立つ急須。


 誰かがテレビのニュースに文句を言い、誰かが笑う。


 特別なことではない。


 だが、栄治にはそれが奇跡みたいに思えた。


「変わったよなぁ」


 ぽつりと滝川創が言った。


 今日は珍しく仕事帰りに立ち寄っていた。


「最初ここ来たとき、空気ピリピリしてましたもん」


「そりゃそうだ」


 大河内が腕を組む。


「問題だらけだったからな」


「今も問題だらけですよ」


「うるさい」


 皆が笑う。


 栄治は湯呑みを手に、その光景を見つめていた。


 ふと思い出す。


 あの安宿の四畳半。


 冷えた弁当。


 孤独死の部屋。


 “保証人なし”。


 あの頃、自分は社会から押し出されていく感覚ばかり抱えていた。


 だが今は違う。


 制度が全部を救ったわけではない。


 見守りシステムだけでもない。


 契約書だけでもない。


 誰かが声をかける。


 灯りが点いている。


 それだけで、人間は少し踏みとどまれる。


「坂本さん」


 結衣が隣へ座る。


「最近、顔変わりましたよね」


「何だそれ」


「最初、ずーっと怖い顔してました」


「してない」


「してました」


 滝川が笑う。


「確かに」


「お前まで」


 大河内まで鼻を鳴らした。


「最初は“また厄介な老人来た”と思った」


「言うな」


「でも今は」


 一瞬だけ言葉が止まる。


 大河内は照れくさそうに咳払いした。


「……いないと困る」


 栄治は思わず目を瞬いた。


 結衣が吹き出す。


「大河内さん、それほぼ告白ですよ」


「違う!」


 笑い声が広がった。


 窓の外では、夕暮れがゆっくり夜へ変わっていく。


 ひだまり荘の部屋に、一つ、また一つと灯りが点いた。


 白い光。


 オレンジ色の光。


 カーテン越しの生活。


 そのひとつひとつに、誰かの孤独と、誰かの今日がある。


 やがて皆が部屋へ戻り、共有スペースは静かになった。


 栄治も自室へ戻る。


 六畳一間。


 古い畳。


 窓際の観葉植物。


 小さな流し台。


 以前と同じ部屋なのに、もう違って見えた。


 やかんへ水を入れる。


 蛇口をひねる音。


 青いガスの火。


 その瞬間、机の上の白い見守り端末が、小さく点滅した。


 “生活反応を確認しました”。


 栄治は苦笑する。


「……相変わらず見てるな」


 だが、その光はもう冷たい監視には思えなかった。


 誰かが気づける仕組み。


 誰かと繋がるための、小さな灯りだ。


 湯が沸く。


 茶葉の香りが部屋へ広がる。


 栄治は湯呑みを持ち、窓際へ座った。


 外では、ひだまり荘の灯りが夜に浮かんでいる。


 それぞれの部屋。


 それぞれの人生。


 孤独は消えない。


 老いも、不安も、死もなくならない。


 それでも。


 人は、誰かの灯りを見ながら生きていける。


 栄治は静かに茶を啜った。


 温かかった。


 そしてその温もりは、確かに自分をこの世界へ繋ぎ止めていた。




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