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老人  作者: かおるこ
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エピローグ ひだまり荘の晩ごはん

エピローグ ひだまり荘の晩ごはん


 六月の夕方だった。


 ひだまり荘の廊下には、湿った風がゆっくり流れている。どこかの部屋から扇風機の回る音が聞こえ、遠くでは子どもたちの遊ぶ声が響いていた。


「坂本さーん!」


 一階の共同流しのほうから、三浦結衣の声が飛んでくる。


「今日ぶり安かったんですけど、いります?」


 坂本栄治はベランダで洗濯物を取り込みながら顔を上げた。


「ぶり?」


「スーパーでアラが山盛り三百円!」


「安いな」


「大河内さんが“買え”ってうるさくて」


「聞こえてるぞ!」


 管理室から怒鳴り声が返る。


 だが、そのあとに住人たちの笑い声が続いた。


 共同台所へ行くと、大きな鍋がぐつぐつ煮えていた。


 ぶりと大根。


 甘辛い醤油の匂いが湯気と一緒に広がり、腹の奥をじんわり刺激する。


「うまそうだな」


「まだ味しみてませんよ」


 結衣が木べらを動かしながら言う。


 隣では二階の住人の田辺ハルが、大根の面取りをしていた。七十代後半の小柄な老婆で、いつも腰を丸めて歩いている。


「坂本さん、そこ座って」


「何だ」


「ズボン持ってきたでしょ」


 栄治は嫌そうな顔をした。


「……まだやるのか」


「やるの」


 机の上には、灰色のスウェットパンツが置かれていた。洗濯の拍子に紐が抜けてしまったやつだ。


「こんなの買い替えればいい」


「もったいない」


 ハルは即答した。


「まだ履けるんだから」


 栄治は渋々座る。


 ハルは安全ピンへ紐を通し、布の穴へ器用に差し込んだ。


「ほら、こうやるの」


「細かいな……」


「男の人はすぐ捨てる」


「工具ならわかるんだが」


「布も同じだよ」


 ハルの指は皺だらけだったが、驚くほど滑らかに動く。


 栄治はその手を見つめた。


 きっと長い間、家族の服を縫ってきた手だ。


「坂本さんもやってみな」


「俺が?」


「覚えとけば困らない」


 安全ピンを渡される。


 栄治は眉間に皺を寄せながら紐を押し込んだ。


「あっ」


「ほら絡まった」


「難しいんだよこれ」


 結衣が吹き出す。


「坂本さん、不器用すぎます」


「うるさい」


 そのとき、若い母親が子どもを連れてやってきた。


「すみません、また裾ほつれちゃって」


「見せな」


 ハルが自然に針を受け取る。


 小さな子どもが栄治を見上げた。


「おじいちゃん、なにしてるの?」


「修行だ」


「しゅぎょう?」


「紐と戦ってる」


 子どもは声を上げて笑った。


 鍋の中では、ぶりの脂が大根へじわじわ染み込んでいく。醤油と生姜の香りが、湿った夕方の空気に混ざった。


「できた」


 ハルが裾を返す。


「ありがとうございます!」


「その代わり今度肩揉んで」


「はい!」


 そんなやり取りを見ながら、栄治は不思議な気持ちになっていた。


 誰かが裁縫をする。


 誰かが料理を作る。


 誰かが棚を直す。


 それだけだ。


 大層なことじゃない。


 だが、ここには“役割”があった。


 夜になるころには、共同スペースへ自然と人が集まっていた。


「ほら、ぶり大根できたよ」


 結衣が器を並べる。


 湯気の立つ大根は、飴色に染まっていた。


「うまそう」


「坂本さん、ご飯よそって」


「はいはい」


 大河内は缶ビールを持って座り込む。


「最近ここ、居酒屋みたいだな」


「大家がいる居酒屋って嫌ですね」


「お前な」


 皆が笑う。


 窓の外では、夏前の夜風がそよそよ吹いていた。


 どこかの部屋で風鈴が鳴る。


 栄治はぶり大根を口へ運んだ。


 柔らかい。


 甘辛い汁が舌に広がる。


「……うまい」


「でしょ?」


 結衣が嬉しそうに笑う。


「大根いっぱいあるから明日もです」


「またか」


「嫌なんですか?」


「嫌じゃない」


 その言葉は、自然に出た。


 ふと、栄治は思う。


 昔、自分は“支えられる側”になることが怖かった。


 見守られることも。


 助けを借りることも。


 情けないと思っていた。


 だが違った。


 ここでは皆、少しずつ支え合っている。


 ハルは裁縫を教える。


 栄治は物を直す。


 結衣は人を繋ぐ。


 大河内は文句を言いながら見回っている。


 できることを持ち寄っているだけだ。


 それだけで、人は案外ちゃんと暮らせる。


「坂本さん」


 滝川が湯呑みを持ちながら笑う。


「最初ここ来たとき、こんな未来想像してました?」


 栄治は少し考えた。


 安宿の四畳半。


 冷たい弁当。


 断られ続けた不動産屋。


 あの頃、自分は“終わり”へ向かっている気がしていた。


 だが今は違う。


「……いや」


 栄治は小さく笑った。


「でも悪くない」


 誰かがテレビをつける。


 誰かが皿を洗う。


 ぶり大根の匂い。


 笑い声。


 古いアパートの夜。


 ひだまり荘の灯りが、静かに並んでいた。


 その灯りの中で、栄治は今日も湯呑みを両手で包む。


 温かかった。


 そしてその温もりは、もう一人分だけのものではなかった。




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