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老人  作者: 花守かおるこ
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九パーセントの銀色

九パーセントの銀色


富子は台所の椅子から立ち上がると、膝の裏が固まったゴムのように強張り、藤色のブラウスの裾を引っ張ってしわを伸ばそうとした。窓の外の庭では、秋明菊の隣に植えてある紫色の竜胆が、昨日までの雨を含んだ黒い土のなかで重そうに頭を垂れていた。昨日の昼に作ったきんぴらごぼうの小鉢には白いラップがかけられたままで、電子レンジの小窓には油の飛沫が丸く乾いてこびりついている。和俊がいつも座る丸椅子の上には、先週の火曜日に二人で歩いて取りに行ったクリーニング屋の針金ハンガーが二本、歪んだ形のまま転がっていた。玄関の三和土に降り、靴べらを使わずに踵を踏みつぶしたサンダルを引っかけると、富子は郵便受けに挟まっていた信用金庫のカレンダー付きチラシを無造作に引き抜いた。

「ちょっとそこまで行くだけだから、火の元は消えてるね」


表へ出ると、九月のぬるい風が生ゴミの収集場所から漂う腐ったキャベツの臭いを運んできて、富子は鼻の奥をひくつかせながら灰色のカーディガンの前をかき合わせた。電柱の脇には、近所の野良猫が荒らした青いネットの端から、誰かが捨てたカップ焼きそばの容器が転がり出ており、歩道の敷石の隙間からは小さな黄色いカタバミの花が這い出している。角の酒屋の店先には、かつて和俊が小学校の図工で使ったような青いプラスチックの通い箱が天井まで高く積み上げられ、自動ドアが開くたびに冷房の冷気と段ボールの饐えた匂いが混じって外へ吐き出されていた。富子はいつもの癖で、棚のいちばん隅にある一番安い緑茶のペットボトルに指を伸ばしかけたが、手首をひねって、その隣に並ぶ銀色と黒の缶を鷲づかみにした。果汁ゼロパーセント、アルコール分九パーセントと赤く太い文字で印刷された五百ミリリットルのロング缶を三本、籠に入れずに両腕で抱え込むと、アルミニウムの冷たさが胸の骨に直接突き刺さった。レジの奥で髪を薄茶色に染めた若い女が、だるそうにバーコードを読み取りながら、爪に塗った剥げかけのピンク色のマニキュアを光らせていた。

「レジ袋はご利用ですか」

「いりません。このまま抱えていきますから、大丈夫ですよ」


家に戻ると、畳の部屋の空気は窓を閉め切っていたせいで線香と湿った畳の臭いが混ざり合って淀んでおり、富子はサンダルを脱ぎ捨てるのももどかしく台所の流しへ駆け寄った。卓上の四つ切りの梨は表面が黄色く変色し、包丁の刃先には乾いた果汁が糊のように白く固まって残っていた。和俊が中学生のころ、野球部の練習帰りに泥だらけの靴下を脱ぎ散らかしては富子を困らせたことを思い出し、あの子は昔から手先が不器用で、靴紐を結ぶのさえ人より半年遅かったのだと頭の隅で数えた。プルタブに人差し指の腹を引っかけ、爪が少し剥がれるほどの力で一気に引き上げると、プシュッという鋭い金属音とともに、人工的なレモンの香料が鼻の奥を突き抜けた。富子はグラスも出さず、缶の縁に直接唇を押し当て、喉仏を激しく上下させながら、炭酸の泡が食道を焼き切るような勢いで一気に半分を流し込んだ。

「すっぱいねえ。昔のラムネのほうが、ずっと上等だったよ」


胃の腑が熱い塊を抱え込んだように重たくなり、頭の芯がじんじんと痺れ始めると、富子は抜いたまま畳に転がっている電話線の透明な端子を足の親指で弾いた。居間の茶箪笥の上には、和俊が十歳のときに熱海へ旅行した記念に買ったプラスチック製のペナントが埃をかぶっており、その横には富子が毎朝つけている家計簿が、紫色の万年筆を挟んだまま開かれていた。今日の日付の欄にはまだ何も書かれておらず、昨日の欄には「鶏むね肉百八十円、豆腐一丁六十八円」と震える細い字で記され、その横に薄い醤油の染みが丸く広がっている。富子は二本目の缶のプルタブに指をかけ、引きちぎるような速さで蓋を開けると、泡が吹きこぼれて藤色のブラウスの胸元に濃い色の染みを作った。濡れた布が皮膚に張りつく感触を無視して、残っていた半分とかじりかけのトーストを同時に口の中へ押し込み、もごもごと顎を動かした。

「喉を通らないなら、流し込めばいいんだから。同じことだよ」


二本目の缶が空になって卓上で甲高い音を立てて転がると、富子の視界は薄い油紙を一枚挟んだように白くかすみ、座布団の端から出ている木綿糸のほつれが二重に見え始めた。台所の勝手口のガラス越しに、隣の家のベランダに干された色あせたバスタオルが風に揺れているのが見え、どこかの家のテレビから昼のニュースを告げる機械的なアナウンサーの声が低く響いていた。和俊が二十歳の成人式で着た紺色のスーツは、結局その日の一度しか袖を通されることなく箪笥の奥で防虫剤の匂いを吸い続けているのだとぼんやり思い出し、あのときのあの子は背筋を伸ばして、誰よりも立派に見えたはずだったと胸の中で言い聞かせた。富子は三本目の缶の冷たさを指先に感じながら、手の甲に浮き出た茶色いシミを親指で何度も強くこすり、爪が皮膚に食い込むまで力を込めた。缶を持ち上げる腕が小刻みに震えて、銀色の缶胴に自分の歪んだ顔が映り込んでいるのが分かっても、視線を逸らすことはしなかった。

「和俊、お前が悪いんじゃないよ。母さんも、悪くないんだよ」


缶の底に残った最後の液体を飲み干すと、富子は胸やけのような酸っぱい熱さをこらえるために背中を丸め、灰色のカーディガンのポケットからくしゃくしゃになったハイライトを取り出した。流し台の端にあるワンカップの空き瓶では、和俊が挿した秋明菊が傾き、濁り始めた水の中で茎の切り口が茶色くふやけていた。富子は濡れた指でマッチを擦ろうとしたが、頭の軸がぐらりと揺れて二本続けて軸木をへし折り、三本目でようやく立ち上がった小さな黄色の炎をじっと見つめた。煙を深く吸い込むと、肺の奥がツンと痛み、煙草の灰が膝の上の葡萄色の小花柄スカートにぽろりと落ちて小さな穴を焼き焦がした。焦げた布の匂いが立ち上るなか、富子は空になった三本の缶を手のひらで押し倒し、アルミが擦れ合う薄っぺらな音を部屋いっぱいに響かせた。

「誰も見てないんだから、いいじゃないか。いまだけは、何にも聞こえないよ」


頭の中が濁った水のように重たく沈み、手足の先から体温が抜けていくようなだるさが全身を覆うと、富子は畳の上に横たわり、固い腕を自分の枕にした。鴨居の上には、いつ貼ったのかも思い出せない交通安全の御札が黄ばんで反り返り、その横の柱には和俊が小学生のときに刻んだ背比べの傷が三本、黒ずんだ線になって残っていた。昨日の救急外来で自分を怒鳴りつけたあの男の汗ばんだ首筋と、和俊の濡れたズボンの匂いが混ざり合って天井の木目の中にぐるぐると渦を巻き、富子の乾いた唇からため息が漏れた。富子はカーディガンの袖を口元に当て、涎が畳に垂れるのを防ぐように強く噛みしめながら、足の指をぎゅっと丸めた。抜かれた電話線は静かに畳の縁に横たわったままで、遠くの幹線道路を走る大型トラックの重い地響きだけが、富子の耳の底を絶え間なく揺らしていた。

「もう一本、買ってこようかね。まだ、お日様は高いんだから」


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