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老人  作者: 花守かおるこ
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老人ホームを八十八日で退去しました――安全のために、私の一日を明け渡すことはできません

老人ホームを八十八日で退去しました――安全のために、私の一日を明け渡すことはできません


七十四歳の富子が有料老人ホームへ入ったのは、風呂場で立ちくらみを起こした翌月だった。一人で倒れたら誰にも見つけてもらえないという想像が頭から離れず、見学した施設の静かな廊下と、笑顔で挨拶する職員を見て契約を決めた。入居一時金四百八十万円を支払い、十二年間暮らしたアパートを引き払った。


食事は一日三回、決まった時間に食堂へ運ばれた。掃除も洗濯も職員が行い、薬を飲み忘れれば看護師が声をかけてくれる。入居初日の夕方、富子は白身魚の煮つけを箸でほぐしながら、もう買い物も料理もしなくてよい生活が始まったことを知った。


「富子さん、お薬をきちんと飲めて偉いですね」


看護師は錠剤を飲み込んだ富子の記録用紙に丸をつけた。富子は七十四年間使ってきた喉を撫で、褒められなければ薬も飲めない年齢になったのだろうかと考えた。それでも初日から文句を言うのはよくないと思い、空になった紙コップを看護師へ返した。


最初の違和感は、入居三日目の午前一時四十分に現れた。富子は黒いパーカーを羽織り、太いカーゴパンツのポケットへ財布を入れた。玄関の自動扉の前まで行ったが、操作盤には赤いランプが灯り、扉は開かなかった。


「富子さん、どちらへ行かれるのですか」


「コンビニ。火曜と金曜の深夜にいる男の子と、少し話してくるの」


「夜間の外出は危険です。コンビニでしたら、明日の昼間に行きましょうね」


「昼間じゃ駄目なのよ。彼はいないもの」


二十歳の店員は、富子が新しいパーカーを着ていけば「ラッパーみたいで格好いい」と言ってくれた。彼女と喧嘩をした話も、資格試験に二度落ちた話も、品出しをしながら聞かせてくれた。富子はプリンと割引のおにぎりを買い、二、三分だべって帰るだけだったが、その時間を昼間の買い物で代用することはできなかった。


翌朝六時十五分、富子はラジオ体操へ行くために再び玄関へ向かった。しかし夜間の施錠は午前七時まで解除されず、警備員から談話室で待つように言われた。午前十時から館内で体操があると説明されたものの、公園の湿った土も、柴犬の権太も、第二体操で左右を間違える田辺さんも、その時間にはいなかった。


「録音を流しますから、運動の内容は同じですよ」


「朝六時半の空気も録音してあるの?」


富子の問いに、警備員は壁の時計を見た。規則を決めたのは自分ではないと答え、受付の書類へ視線を戻す。富子はガラス扉の向こうが青白く明るくなるまで、玄関前を何度も往復した。


施設では、訪問看護も終了していた。看護師は二十四時間いるため、外部の訪問看護師に来てもらう必要はないと説明された。けれど施設の看護師は富子の血圧と服薬記録を知っていても、富子が「昨日は食べました」と答えたときの声だけで、冷蔵庫に鍋が残っていると気づく人ではなかった。


「日野さんには、もう会えないの?」


「以前の訪問看護師さんですね。必要な医療的ケアはこちらで行いますから、ご安心ください」


「ケアの話じゃないの。日野さんの話をしているのよ」


毎週月曜日に一時間来ていた、七十六歳の佐竹さんにも会えなくなった。施設では職員が毎日清掃するため、外部の訪問介護を利用する必要がないと言われた。富子に必要だったのはきれいな床だけではなく、膝をかばいながら掃除機をかける佐竹さんへ「七十六歳に床を磨かせていいのかしら」と軽口を言う月曜日だった。


入居二十日目を過ぎるころ、富子は談話室の椅子に座っていることが難しくなった。注意欠如・多動症の富子は、体を動かしているほうが頭の中を整理しやすかった。廊下を歩き、掲示板を読み、窓辺の鉢植えの向きを直すたび、職員から椅子へ戻るよう声をかけられた。


「富子さん、落ち着きませんか?」


「落ち着いているわよ」


「先ほどから、ずっと歩いていらっしゃいます」


「歩いているから、落ち着いているの」


服装についても、やがて注意を受けた。富子は大きな英字の入ったパーカー、太いカーゴパンツ、赤いスニーカーを好んでいた。食堂の隣席から「七十四歳にもなってだらしない」と囁く声が聞こえ、職員からも共同生活にふさわしい服装を考えてほしいと言われた。


「この服を着ると、誰かのお粥がまずくなるの?」


「そういうことではありません。もう少し、年齢に合った身だしなみをというご意見がありまして」


「服の幅が広いだけよ。私の暮らしまで、だらしないことにしないで」


夜になると、別の問題が待っていた。感覚過敏が強い日は、隣室の咳、トイレの水音、ナースコール、見回りをする職員の靴音が、薄い扉を抜けて富子の耳へ届いた。一つの音を聞くと次の音が来るまで耳が待ち続け、毛布を頭までかぶれば、自分の呼吸音が頭の内側で響いた。


「耳栓を試してみましょうか。それでも眠れなければ、先生に睡眠のお薬を相談できますよ」


「音がつらいと言っているのに、どうして私を眠らせる話になるの?」


咳をする人が悪いとは思っていなかった。夜中にトイレへ行く人にも、水を流す必要がある。けれど富子にも、音に耐えられない夜は部屋を出て、コンビニまで歩く自由が必要だった。


眠れない夜、富子はパソコンを開いて小説を書いた。静かな画面の中では、王子が婚約者を捨て、捨てられた令嬢が証拠の帳簿を取り出そうとしていた。午前二時を過ぎたころ、見回りの職員が扉を開け、パソコンの光を見つけた。


「富子さん、もう遅いですよ。パソコンを閉じて寝てくださいね」


「今、王子が廃嫡されるところなの」


「続きは明日にしましょう。生活のリズムが崩れてしまいますよ」


「明日の私が、今の続きを覚えているとは限らないでしょう」


「健康のためですから、今日はここまでにしてくださいね」


富子は王子を廃嫡できないまま、パソコンを閉じた。暗くなった画面に、髪の乱れた自分の顔が映る。隣室から咳が三度聞こえ、そのあと共同トイレの水が流れた。


入居八十八日目の夜、同じ職員が再び富子の部屋を訪ねた。机にはパソコンが開かれ、契約書と三色の付箋が並んでいる。富子は黒いパーカーの袖をまくり、前払金の返還条項を読み直していた。


「富子さん、また夜更かしですか。もう寝てくださいね」


「今夜は契約書を読んでいるの」


「明日にして、そろそろお休みになりましょう」


「あれも駄目、これも駄目。夜は出るな、朝も出るな、歩くな、この服を着るな、音は我慢しろ、小説は明日にしろ、友達には会わなくていい、訪問看護も佐竹さんも必要ない――」


職員が健康と安全のためだと説明しようとした。富子は椅子から立ち上がり、机の上にたまった注意書きを一枚ずつ両手で持ち上げた。書類の端が扇風機の風を受け、床へばらばらと落ちた。


「もう、うるさーーーーーーい!」


廊下の向こうでナースコールが鳴った。隣室から咳が聞こえ、遠くのトイレでは水が流れている。富子は黒いパーカーのポケットから老眼鏡を取り出し、契約書へ赤い下線を引いた。


同じ階に住む佐々木さんが、騒ぎを聞いて部屋へ入ってきた。彼女は薄紫色の寝間着の上に毛布を巻き、片方だけスリッパを履いていた。床へ落ちた書類を拾い、富子の指が押さえている条項を読んだ。


「九十日以内に契約を解除すれば、前払金から日割りの利用料を引いた残額が返還される。今日は八十八日目ね」


「あと二日しかないじゃない!」


「だから今夜は、寝ている場合じゃないわね」


佐々木さんは、三十六年間夫を介護していた。食事を作り、洗濯し、夜中に何度も体位を変え、夫を見送ったあとも、台所へ立つだけで腰が曲がった。決まった時間に食事が運ばれ、掃除も洗濯もしてもらえるこの施設を、彼女は気に入っていた。


「ここはね、やってもらうのが好きな人には天国なの。家事を取り上げられることが、ご褒美になる人もいるのよ」


「佐々木さんには、ここが天国?」


「ええ。私はもう、自分のご飯さえ作りたくない。でも、自分でお茶を淹れたい人、午前二時に小説を書きたい人、深夜のコンビニ店員とだべりたい人には地獄ね」


「私は、自分で冷蔵庫を開けて、賞味期限の切れた豆腐を発見したい」


「でしょうね。あなたは八十八日いて、一度も椅子に落ち着いていなかったもの」


「歩いているから、落ち着いているのよ」


佐々木さんは富子が書いた退去届へ目を通し、記入漏れのある欄を指で示した。富子は娘へ電話をかけ、新しい賃貸契約の連帯保証人になってほしいと頼んだ。娘はしばらく黙ったあと、今度は見学へ一緒に行くと言った。


翌朝、富子は施設長の前に退去届を置いた。施設長は、食事や職員の対応に問題があったのかと尋ねた。富子は首を横へ振り、四百八十万円から八十八日分の家賃やサービス費を控除した返還額の計算書を広げた。


「悪い施設ではありません。佐々木さんには天国です。でも私には、富子のまま暮らせる場所ではありませんでした」


「お一人暮らしに戻れば、転倒や急病の危険があります」


「あります。だから訪問看護に来てもらいます。月曜日には佐竹さんが来ます。朝六時半には公園へ行って、三日姿を見せなければ電話してもらう。火曜と金曜の深夜には、コンビニの友達にも生存確認してもらいます」


富子は返還額を確認し、施設を出た。佐々木さんは玄関まで見送りに来たが、外へは出なかった。自動扉を挟んで、二人はそれぞれが選んだ場所に立った。


「私はここで、やってもらう人生を選ぶわ。あなたは外で、自分でやる人生を選びなさい」


「たまには面会に来るわ」


「午前二時以外にしてちょうだい」


新しい部屋は六畳の和室と六畳の台所だった。玄関には赤いスニーカーが置かれ、椅子の背には黒いパーカーが掛かっている。深夜一時四十分、富子はカーゴパンツのポケットへ財布を入れ、コンビニへ向かった。


「富子さん、どこ行ってたの。八十八日も来ないから、入院したのかと思った」


「老人ホームへ入って、逃げてきたの」


「脱獄じゃん」


「四百六十万円くらい持って逃げたわ」


二十歳の店員は、品出しの途中で腹を抱えた。富子は新商品のプリンと割引のおにぎりを籠へ入れ、彼女との喧嘩がどうなったのか尋ねた。午前二時に食べる必要はなかったが、今夜ここへ来る必要はあった。


朝六時半には、公園でラジオ体操をした。田辺さんは第二体操で今日も左右を間違え、柴犬の権太は富子の赤いスニーカーを嗅いだ。体操を一つ飛ばしても、誰からも「上手にできましたね」と褒められなかった。


午前十時、訪問看護の日野さんがやってきた。血圧を測る前に冷蔵庫を開け、プリンが四個も入っているのを見つけた。富子が自由を買ったと説明すると、日野さんは賞味期限の近い豆腐も一緒に取り出した。


翌週の月曜日には、七十六歳の佐竹さんが掃除道具を持って現れた。富子が玄関を開けると、佐竹さんは何事もなかったように靴を脱ぎ、いつもの場所へ鞄を置いた。掃除機のコードを伸ばしながら、八十八日分の埃がたまっていると言った。


「留守だったんだから、たまっていないわよ」


「人が戻れば、埃も戻ります。富子さんは口を動かす前に、座布団をどけてください」


富子は座布団を抱え、掃除機の前をうろうろした。佐竹さんに邪魔だと言われ、台所へ移動して湯を沸かす。茶葉を多く入れすぎたため、お茶は舌に渋みが残るほど濃くなった。


「少し濃すぎたわね」


「自分で淹れたんでしょう」


「そうよ。今日のお茶の濃さは、私が決めたの」


今のアパートでは、深夜に小説を書いても、朝六時半に出かけても、ラッパーのような服を着てもよかった。訪問看護に支えてもらい、佐竹さんに掃除してもらいながら、それでも一日の使い方は富子が決められた。自立とは、何もかも一人で行うことではなかった。


何をしてもらえるかではなく、誰が自分の一日を決めるのか。


それが富子にとって、天国と地獄の境目だった。


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