いまはむりです
いまはむりです
九月の朝、七十二歳の富子は、薄い藤色のブラウスに灰色のカーディガンを重ね、台所の椅子に座っていた。窓の向こうでは、三畳ほどの庭に植えた白い秋明菊が、昨夜の雨を花びらに残したまま揺れている。卓上には半分かじったバタートーストと、表面に薄い膜の張ったミルクティーがあり、食べるつもりで剝いた梨は、四つに切られたまま皿の上で乾き始めていた。
電話機は、台所と六畳間を仕切る襖のそばに置いてある。何年も使っている白い固定電話で、受話器の数字はところどころ薄くなり、ねじれたコードには富子が貼った花柄のマスキングテープが巻かれていた。昨日までは何でもない生活道具だったのに、今朝は黒い呼び出し音を腹の底へ落とす装置に見えた。
電話が一度鳴った。富子は椅子から立ち上がったが、二度目の音で足が止まり、三度目が鳴る前に壁の差し込み口から電話線を抜いた。透明な端子が畳へ落ち、乾いた小さな音を立てた。
「ごめんなさい。いまは、むりです」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。病院へなのか、入院した息子へなのか、電話一本受けられない自分へなのか、そのどれでもあるような気がした。呼び出し音が消えると、冷蔵庫の低い唸りと、軒下から落ちる雨粒の音だけが部屋に残った。
四十九歳の息子、和俊が新しいアパートを借りて、まだ二週間だった。共同の洗濯機と乾燥機しかなく、洗った服を外へ干せないことには困っていたが、一階の角部屋で、富子の家までの道も平らだった。自転車なら十分ほどで来られるため、和俊は訪問看護が終わると、紺色のリュックを背負って毎日のように顔を見せた。
「母さん、今日は風呂へ入ってから来たよ」
「髪がまだ濡れてるじゃない。風邪をひくよ」
「大丈夫。自転車に乗れば乾くから」
「それは乾かしているんじゃなくて、冷やしているの」
そんな話をしながら、二人で春菊をちぎり、大根餅を焼いた。和俊には一か月ほど風呂へ入れない時期があったのに、新しい部屋へ移ってからは毎日湯を使い、夜になると自分のアパートへ帰っていった。玄関で靴を履きながら何度も振り返ることもなくなり、富子が「着いたら電話して」と言わなくても、自分から連絡をくれた。
二週間だけ、奇跡のような平安があった。訪問看護師が毎日入り、薬を確認し、水を飲み過ぎていないかも見てくれた。富子は夜中に何度も時計を確かめる癖が少しだけ減り、朝まで眠れた日は、庭へ出て鉢植えの青紫蘇から虫食いの葉を摘んだ。
「このまま、何とか暮らしていけるかもしれないね」
「母さん、何とかじゃないよ。普通に暮らすんだよ」
「普通って、ずいぶん立派な言葉だねえ」
「そうかな。風呂に入って、ご飯を食べて、自分の部屋へ帰るだけだよ」
和俊は照れたように笑い、ワンカップの空き瓶へ庭の秋明菊を一輪挿した。花瓶を買えばよいのにと言うと、「これも透明だから同じだよ」と答えた。その瓶は今も流し台の隅にあり、白い花びらが一枚、水に浮いていた。
昨日の朝も、二人は予約どおり眼科へ行った。和俊は洗いたての水色のシャツを着て、富子は葡萄色の小花が散ったスカートをはき、帰りにスーパーで鶏むね肉と豆腐を買った。夕飯は春菊鍋にしようと話していたのに、昼を過ぎたころから、和俊は何度も水道へ向かうようになった。
「和俊、少し休んだほうがいいよ」
「喉が渇くんだ。水を飲まないと落ち着かない」
「朝から何杯飲んだの」
「分からない。数えてない」
富子は止めなければと思ったが、蛇口から流れ続ける水を見ているうちに、頭の中の言葉がばらばらになった。訪問看護へ連絡するのか、コップを取り上げるのか、救急車を呼ぶのか、どれを先にすればよいのか決められなかった。和俊は台所の椅子へ腰を下ろし、濡れた口元を手の甲で拭ってから、自分で電話をかけた。
「救急ですか。水を飲み過ぎました。具合が悪いです」
「和俊、母さんが代わろうか」
「いい。母さん、いま話せないだろ」
「ごめんね。頭が動かない」
「住所は自分で言えるから、大丈夫」
救急車のサイレンが近づくまでの数分、富子は買ってきた豆腐を冷蔵庫へ入れ、また取り出し、賞味期限を読んでからもう一度しまった。鶏肉のパックだけが買い物袋に残り、薄い桃色の汁が底へにじんでいた。救急隊員が部屋へ入ってきたとき、富子はなぜか、その袋を冷蔵庫へ入れなければとばかり考えていた。
救急車の中は白い光が強く、消毒薬とゴムの匂いがした。富子は細いベンチの端で両手を握り、和俊の紺色のリュックを膝に抱えていた。隊員が血圧を測り、別の隊員が搬送先を探して何度も電話をかけたが、受け入れてくれる病院はなかなか見つからなかった。
「母さん」
「ここにいるよ」
「漏らした」
和俊のズボンの腰から下が濃い色に変わり、担架のシーツにも染みが広がっていた。失禁の匂いが消毒薬に混じると、和俊は顔を窓のほうへ向けた。富子はリュックからタオルを探したが、入っていたのは眼科の診察券と、封を切っていないポケットティッシュと、朝に買った小さな栗饅頭だけだった。
「大丈夫だよ。洗えば落ちるから」
「新しいズボンだったんだ」
「二週間前に買ったやつだね。裾が少し長かったから、ちょうど洗いたかったの」
「そんな洗い方、あるかよ」
和俊はほんの少し口元を動かしたが、すぐに目を閉じた。富子はその横顔を見ながら、二週間の平安が薄いガラスの器だったことを知った。風呂へ入り、自分の部屋へ帰り、電話で「着いた」と言うだけの暮らしを、二人はようやく手に入れたのに、器は音も立てずに指の間から滑り落ちていた。
救急隊員は電話を切るたびに、別の病院へかけ直した。短い言葉で和俊の状態を説明し、断られると、手元の用紙へ何かを書き込んだ。富子が何軒目なのか尋ねると、隊員は受話器を置いてから、東京ルールを使って受け入れ先を探すと説明した。
「東京ルールって、何ですか」
「病院への照会が五回以上になったり、搬送先を探し始めて二十分以上たったりした場合に、地域救急医療センターなどと協力して受け入れ先を調整する仕組みです」
「そこへ行けば、必ず診てもらえるんですか」
「いま、受け入れられる病院を探しています。もう少しお待ちください」
東京ルールという名前を聞いたとき、富子は東京に住んでいる人間だけが使える便利な制度なのかと思った。しかし実際には、運びたい救急隊と、受け入れたいのに病床や人手の足りない病院が、閉まりかけた扉を何人もの手で押し開けるための仕組みだった。和俊の名前も知らない誰かが、別の場所で電話をかけ、空いているベッドと診察できる医師を探しているのだと考えると、富子は膝の上のリュックを抱く腕へ力を込めた。
ようやく受け入れ先が決まり、救急車は病院へ向かった。窓の外を看板や街灯が後ろへ流れ、赤い光が濡れた道路に何度も跳ね返った。富子には制度の細かなことまでは分からなかったが、何度も断られたあと、ようやくひとつの扉が開いたことだけは分かった。
救急外来の待合には、硬い青色の椅子が並んでいた。壁の時計は秒針の音を立てない型だったが、富子には時間が耳の奥で鳴っているように感じられた。自動販売機で買った温かいミルクティーは甘過ぎて、二口飲んだところで蓋を閉めた。
処置室の扉が開くたびに、早足で歩く靴の音と、短く指示を出す声が聞こえた。救急車は一台到着したと思うと、間を置かずに次の一台が入ってきた。担架が廊下を通り、家族らしい女性が泣く幼児を抱えて壁際へ寄り、看護師は額の汗を拭く暇もなく処置室へ戻った。
富子は胸ポケットのたばこへ触れた。吸えば何かが解決するわけではないが、紙巻きを指に挟み、煙をひと息吐く間だけは、次に何をすべきか考えなくて済む。立ち上がると膝が震えたため、椅子の背へ手を置いてから職員へ声をかけた。
「すみません。少し外へ出て、たばこを吸ってきます」
病院の外は雨上がりで、湿った土と救急車の排気が混じった匂いがした。植え込みの奥では金木犀が咲き始めていたが、橙色の小さな花を探す余裕はなかった。富子はたばこを半分ほど吸い、指先が冷たくなったところで火を消し、急いで救急外来へ戻った。
自動ドアが開き、富子が中へ一歩入った。そのとき、救急外来にいた男性が足を止め、まっすぐ富子を見た。乱れた襟元が首に張りつき、額には細かな汗が浮いていた。
「いい加減にしろよ!!」
誰に言ったのか迷う余地はなかった。その目も、顔も、声も、富子へ向けられていた。富子は自動ドアの前に立ったまま、雨に濡れた靴底が床へ貼りついたように動けなくなった。
言い返す言葉は、いくつもあった。外へ出る前に断ったこと、遊びに来たのではないこと、息子が救急車の中で失禁するほど具合が悪かったこと、何軒もの病院に断られ、東京ルールでようやくここへ来たことを言えばよかった。それなのに男性の汗と赤くなった目を見た瞬間、富子には、その人が吐き出した言葉の後ろまで手に取るように分かってしまった。
この人も、もう極限なのだろう。次々に来る救急車を断ることもできず、受け入れれば中にいる患者を待たせ、どれだけ走っても次の担架が運び込まれる。東京ルールは患者を救うための仕組みだが、受け入れる現場に、何もないところから新しい医師や看護師やベッドを生み出す魔法ではない。
だからといって、怒鳴られてよいわけではなかった。事情が分からなければ、ただ腹を立てて言い返せたかもしれない。相手の限界が手に取るように分かるからこそ、「いい加減にしろよ!!」と彼の吐いた毒が、避ける場所もなく富子の中へ入ってきた。
「すみません」
富子はそれだけ言い、青い椅子へ戻った。膝の上には和俊の紺色のリュックがあり、中では栗饅頭がつぶれ、包装紙の端から餡がにじんでいた。謝ったのが正しかったのか、黙っていたのが正しかったのか分からないまま、富子はファスナーを開けては閉めた。
「母親なのだから、しっかりしなければ」と考えるたびに、さっきの声が頭の中で繰り返された。富子は和俊が子どものころ、五月人形の兜をかぶりたいと駄々をこねた日のことを思い出した。兜はかぶるものではなく飾るものだと説明しても聞かず、結局、新聞紙で折った兜を頭に載せてやると、和俊は太刀の横で得意そうに笑った。
その子が四十九歳になり、救急車の中で「漏らした」と顔を背けた。新しいアパートで普通に暮らすのだと言った、その口で救急車を呼び、自分の住所を伝えた。富子は何もできなかったのではなく、和俊が自分で助けを求めるのを、倒れずにそばで見届けたのだと考えようとした。
やがて和俊の入院が決まり、富子は一人で家へ戻った。鍋にするはずだった春菊は新聞紙に包まれたまましおれ、鶏肉のパックは買い物袋の底でぬるくなっていた。食べられそうなものを冷蔵庫へ入れ、豆腐だけを小鍋で温めたが、醤油をかける前に火を止めた。
風呂場には、和俊が前日に使った黄色いタオルが干してあった。きれいに絞れていなかったため、下の洗面器へ水がぽたり、ぽたりと落ちている。富子は洗い直そうと手を伸ばしたが、そのままにして、葡萄色のスカートだけを脱いだ。
夜はほとんど眠れなかった。目を閉じると、和俊の濡れたズボンと、病院の青い椅子と、男性の赤い目が順番に浮かんだ。相手の事情を理解することと、その人の吐いた毒を自分の体へ入れることは別なのだと考えたが、毒は理屈を聞かず、呼吸をするたびに胸の奥で場所を変えた。
朝になって、固定電話が鳴った。病院からかもしれず、受話器を取れば和俊の状態を聞けるかもしれなかったが、富子の手は電話機の上で止まった。受話器の向こうから昨日の怒鳴り声まで流れ込んできそうで、三度目が鳴る前に電話線を抜いた。
「ごめんなさい。いまは、むりです」
電話を切ったのではなく、電話線そのものを抜いた。透明な端子が畳へ落ちると、部屋は急に広くなり、冷蔵庫の唸りと雨垂れの音が戻ってきた。富子はカーディガンのいちばん上のボタンを外し、何度も息を吐いた。
息子を見捨てたのではない。和俊はいま病院にいて、医師と看護師に守られている。自分が電話へ出なかった数分で、和俊の点滴が止まるわけでも、病室から追い出されるわけでもない。
それでも富子は、抜けた電話線を見るたびに、胸ポケットを探す癖のように指を動かした。たばこを吸うため外へ出ただけなのに、いい加減にしろと言われた。七十二年生きてきても、たったひと言で、自分が救急外来にいてはいけない人間になったように体が縮むことがある。
昼近くになると、雨雲の切れ間から細い日が差し、庭の秋明菊が白く光った。流し台のワンカップの瓶では、和俊が挿した一輪が、茎を曲げながらまだ立っていた。富子は花の水だけを替え、抜いた電話線には触れなかった。
「和俊、母さんはいま、むりです。でも、ずっとむりじゃないからね」
声にすると、胸の奥で固まっていたものが少しだけ動いた。電話線は夕方でも、明日でも、訪問看護師が来てからでもつなげられる。いま無理な人間が、いつまでも無理だと決まったわけではない。
富子は硬くなったトーストを皿へ戻し、蜂蜜を細く垂らした。冷めたミルクティーを一口飲むと、甘さのあとに茶葉の渋みが残った。舌を動かし、秋明菊の見える場所へ椅子を寄せると、富子はまず一口だけ、ゆっくりとパンを噛んだ。




