千五十三万円ではありません
千五十三万円ではありません
秋雨の音が専用庭の葉を細かく叩く朝、七十二歳の富子は、十三年前から使っている木目の剥げた机に通帳と電卓を並べた。くすんだ葡萄色のカーディガンを羽織り、伸びた袖口から指先だけを出している。窓の外では秋明菊が白い花を揺らし、台所からは焼いたアジの匂いが流れてきた。
「毎月六万五千円でしょう。それを十三年だから……六万五千円に十二か月を掛けて、さらに十三年」
電卓は、百一万四千円ではなく、一千十四万円と表示した。富子は眼鏡を外してレンズを拭き、もう一度、同じ数字をゆっくり押した。それでも液晶画面には、遠慮のない八桁の数字が居座った。
「一千十四万円! ちょっと待って。あなた、桁を一つ多く出していない?」
電卓は黙っていた。富子は冷めた味噌汁を一口飲み、わかめを箸でつまみながら十三年前の引っ越しを思い出した。まだ新しかったカーテン、庭の隅に植えた小さな菊、段ボール箱の上で食べた海苔弁当まで覚えているのに、毎月出ていった六万五千円の足音は残っていなかった。
「でも、これだけではないのよね。二年に一度、更新料が六万五千円」
十三年間なら、二年目、四年目、六年目、八年目、十年目、十二年目の六回である。富子は六万五千円に六を掛け、三十九万円を家賃の一千十四万円へ加えた。答えが出た瞬間、膝に掛けていた毛布が床へずり落ちた。
「一千五十三万円! ガクガクブルブル、恐ろしい。家が一軒……は買えないけれど、中古の何かなら買えたんじゃないの?」
ちょうど遊びに来ていた息子が、台所からアジの皿を運んできた。焦げた皮がぱりぱりと音を立て、大根おろしには細い青ねぎが散っている。彼は電卓をのぞき込み、富子が書いた「10,530,000円」の横へ、小さな丸を描いた。
「でも母さん、そのお金で十三年間、雨をしのいで、眠って、ご飯を作ってきたんだよ」
「そうだけど、一千万円と聞くと、お尻が椅子から逃げそうよ」
富子は床の毛布を拾い、窓際に干してある靴下の位置を直した。六畳の和室には本と衣類が積まれ、六畳の台所には今朝使った大根の尻尾が残っている。古くなった部屋にも、十三年分の暮らしだけは、数字よりずっと騒がしく詰まっていた。
「ちりつもだねー」
「うん。六万五千円が百六十二回分だね」
「百五十六回分よ。更新料まで月数に混ぜないで。恐怖を水増ししないでちょうだい」
富子は電卓を伏せ、アジへすだちを搾った。爽やかな香りが古い台所へ広がると、一千五十三万円はいったん帳面の中へ引っ込んだ。家賃は戻らなくても、今日の焼きたての皮だけは、冷める前に食べられた。




