九つのありがとうと一つのトイレ
九つのありがとうと一つのトイレ
二〇二六年八月一日、午後八時。ドーン、バチバチと、大きな音が板橋区の空に鳴り響いた。連日のゲリラ雷雨で、富子は洗濯物を取り込んだり、窓を閉めたり、雷雲の予報を何度も確かめたりしていたため、今日も雷が来たのだと思った。小さなアパートの居間では、つけっぱなしのエアコンが低い音を立て、テーブルの上には飲みかけの麦茶と、夕食に食べた冷やし中華の皿が残っていた。
「また雷かねえ。今日も洗濯物を早く取り込んで正解だったよ」
富子が窓の外を見ながら言うと、白いTシャツに紺色の短パンをはいた息子の和俊が、テレビの音量を下げた。四十九歳の和俊は、冷蔵庫から出したばかりの麦茶を一口飲み、音の間隔を確かめるように首を傾けた。すると、もう一度ドーンと響いたあと、窓の向こうの空が赤く明るくなった。
「あれ、花火じゃない?」
「花火? ああ、そうか。今日は板橋の花火大会だったね」
「母ちゃん、見に行く?」
「行くよ。今年も一緒に見ようよ」
富子は急に忙しくなり、冷房の効いた部屋で薄手の花柄ブラウスへ着替えた。去年の花火大会では、帰り道で出会った中学生の女の子八人が、それぞれ赤や水色や黄色の浴衣を着ており、お願いすると笑顔で写真を撮らせてくれた。帯の結び方も髪飾りも一人ずつ違い、富子は帰宅してから何度も写真を眺めたものだった。今年もあの子たちに会えるだろうかと考えると、帽子の向きを直す手まで弾んだ。
「和俊、帽子をかぶりなさい。飲み物は持った?」
「持ったよ」
「本当に? 財布は?」
「たぶん持った」
「たぶんじゃ困るでしょう。トイレは?」
「大丈夫」
「去年も大丈夫って言った五分後に、トイレって言ったんだからね」
富子は念を押したが、和俊は玄関に座り、左右の違う靴下を気にせずスニーカーを履いていた。富子はそれを見て言い直そうとしたものの、外では三発続けて花火が上がり、玄関の蛍光灯まで震えたように感じた。台所の流しには洗っていないコップが二つ残っていたが、帰ってからでいいと決め、富子は自転車の鍵を握った。
近所の陸橋へ向かう道には、同じ目的らしい家族連れが歩いていた。焼きそばのソースの匂いが風に混じり、遠くから子どもの笑い声と自転車のベルが聞こえてくる。富子は自転車を押しながら、和俊が後ろにいるか何度も振り返った。強度行動障害のある和俊と人の多い場所へ出かけるには、急な予定変更や大きな音にも気を配らなければならなかったが、今年も隣を歩いていることが富子にはうれしかった。
「母ちゃん、去年の浴衣の子たち、いるかな」
「和俊も覚えていたの?」
「八人いた」
「そうそう。みんなかわいかったねえ。でも、会えたとしても勝手に撮っちゃ駄目だよ。ちゃんとお願いするんだよ」
「母ちゃんのほうが先に声をかけるじゃない」
「あはは、そうだったね」
陸橋へ着くと、夜空いっぱいに金色の花火が広がった。火の粉は柳の枝のようにゆっくり垂れ、消えたあとには白い煙が薄く残った。火薬の匂いが夏の湿った空気に混じり、歓声が上がるたび、富子もスマートフォンを両手で持ち上げた。手ぶれしないように息を止めて撮影すると、画面の中に赤と青の花火がきれいな円を描いていた。
「見て、和俊。今の、きれいに撮れたよ」
「本当だ。丸く撮れてる」
「去年より上手になったでしょう」
「母ちゃん、同じ写真を二十枚くらい撮るから」
「いいの。二十枚撮れば、一枚くらい傑作があるんだから」
二人は顔を見合わせて笑った。富子は汗ばんだ首筋をハンカチで拭き、持ってきたペットボトルの麦茶を和俊へ渡した。これから大きな花火が続き、祭りがいよいよ盛り上がるというとき、和俊が落ち着かない様子で足踏みを始めた。富子が嫌な予感を覚えて横を見ると、和俊は申し訳なさそうに腰を曲げた。
「母ちゃん、ごめん。トイレ」
「ええっ、今? 出る前に聞いたでしょう」
「そのときは大丈夫だった」
「これから一番きれいなところなのに。もう、どうしていつもこうなの」
「ごめん」
富子の口は、子どものころから叱られるたびにしていたように、アヒルのくちばしのように前へとがった。頬もフグのように膨らみ、眉間には深いしわが寄った。七十二歳になっても、なくて七癖とはよく言ったもので、親から何度注意されても直らなかった顔が、そのまま夜空の下に現れた。和俊はそんな母親の横顔を見て、困ったように頭をかいた。
「母ちゃん、顔がアヒルになってる」
「誰のせいでアヒルになったと思っているの」
「俺」
「分かっているなら、来年から出かける前に必ずトイレへ行きなさい」
「来年も一緒に来るの?」
「そこは当たり前でしょう。ほら、急ぐよ」
富子は花火に背を向け、和俊と一緒に公衆トイレを探した。背後では大きな歓声が上がり、振り返ると、建物の間から紫色の花火が半分だけ見えた。せっかく来たのに、また途中で帰ることになるのかと考えると、富子のサンダルは急に重くなった。去年も準備に時間がかかり、今年も大事なところでトイレになり、四十九歳になっても一人ではイベントの支度を整えられない息子を思って、富子は小さく息を吐いた。
「あーあ。せっかくの花火なのに」
「母ちゃん、ごめん」
「さっきから謝ってばかりだね」
「でも、写真は撮れたよ」
和俊の一言に、富子は足を止めた。スマートフォンを開くと、そこには夜空に広がる金色の花火と、赤と青が重なった大輪が残っていた。陸橋まで一緒に歩けたこと、和俊が人混みの中でも落ち着いていられたこと、二人で花火を見上げて笑ったこと、今年も同じ夏を迎えられたこと。その九つを忘れ、一つのトイレだけを握りしめて文句を言っていた自分に気づいた。
三浦綾子の言葉が頭をよぎった。十のうち九つまで満ち足りていても、人は残った一つの不満を真っ先に口にしてしまう。なぜ不満を後へ回し、感謝できることから先に言えないのだろう。富子は、スマートフォンの画面に映った花火を親指でそっと拡大した。
「和俊、ごめんね」
「えっ、母ちゃんが?」
「そう。トイレに行きたくなるのは仕方ないのに、怒ってしまった。今年も一緒に来てくれて、ありがとう」
「俺も、連れてきてくれてありがとう」
「でも来年は、出発前にトイレへ行くこと」
「やっぱり、それは言うんだ」
「感謝と注意は別です」
公衆トイレから戻ったころには、花火大会は終わりに近づいていた。それでも二人が陸橋へ戻ると、最後の大きな花火が板橋の空いっぱいに広がり、金色の光が富子の花柄ブラウスと和俊の白いTシャツを照らした。富子は写真を撮らず、今度は両目で花火を見上げた。隣では和俊が口を開けたまま空を見ており、その横顔は小さかったころとあまり変わっていなかった。
「母ちゃん、すごいね」
「うん。間に合ったね」
「来年も来よう」
「もちろん。来年は水筒と帽子と、それから出発前のトイレ。三つとも忘れないでよ」
「母ちゃんのアヒルの顔も?」
「それは忘れなさい」
二人の笑い声は、最後の花火の音に包まれた。帰宅すると、流しには出かける前のコップが二つ残り、冷やし中華の皿には乾いたキュウリが一本張りついていた。富子は麦茶を注ぎ直し、和俊と撮った写真を一枚ずつ眺めた。浴衣の女の子たちには会えなかったが、今年の写真には、九つのありがとうを見つけた夜が残っていた。
「和俊、今日は楽しかったね」
「うん。母ちゃん、ありがとう」
「こちらこそ。ごめんなさい。そして、ありがとう」
富子はそう言って麦茶を一口飲み、まだ少しだけとがっていた唇を、ゆっくり笑顔へ戻した。
もちろん、こんな文句を強度行動障害の息子に言えるわけもなく…。
物言わぬは腹ふくるるもとなりw




