一万円札は足元に
一万円札は足元に
深夜一時を過ぎても、七十二歳の富子の部屋には、不思議の魔塔の戦闘音が響いていた。富子は注意欠陥多動性障害があり、一度にいくつもの表示を見て判断することが苦手だった。オレンジ色と紺色の模様が入った七分丈のパンツに、汗を吸った紺のTシャツを着て、散らかった机の前でコントローラーを握っている。机には飲みかけの麦茶、眼鏡拭き、空になった目薬、半分だけ食べた魚肉ソーセージが並び、足元には脱いだ靴下が片方だけ裏返っていた。画面の中では、レベル七十になった富子の分身が、また四十階の床へ倒れていた。
「また負けた。レベル七十だよ。七十。四十階のボスに、いったい何十回負ければいいのよ」
攻略動画や日誌では、レベル四十ほどの人が魔天竜ブーネイを倒していた。敵の動きを見てから技を選ぶ後出しじゃんけんのような戦いなのに、富子は何度やっても途中で集中が切れてしまう。回復しなくてはいけないと考えた瞬間に床の模様が気になり、必殺技を使おうとしたときには敵の攻撃を見失い、気づけば倒されている。失敗するたび、昔から何度も浴びせられた「お前は発達障害だから」という言葉が、赤い敗北の文字に重なった。
「分かってるよ。分かってるけど、私だって勝ちたいんだよ」
富子はコントローラーを膝へ置き、右手で額をこすった。台所には夕食に焼いた野菜たっぷりのモダン焼きの甘いソースの匂いが残り、流し台には皿が水につけたままになっていた。キャベツの切れ端が一枚、排水口のそばに張りついている。冷房は十八度に設定してあるのに、紺のTシャツの背中はじっとりしており、もう一度戦う気にはなれなかった。
「そうだ、コンビニへ行こう。いるかなあ。今日は会えるかなあ」
近所のコンビニには、仲のいい二十歳の男性店員がいる。最初に会ったころの彼は坊主頭だったが、最近は髪が伸び、顔つきも少し大人びてきた。ここのところ富子は魔塔にこもっていたため、彼に会うのは久しぶりだった。郵便局が開くまで待てば、現金を引き出す手数料はかからないが、今夜は百円や二百円を惜しむより、彼とくだらない話をしたかった。
「魔塔には入場料を何十回分も払った気分なんだから、手数料くらい何よ」
富子は紺のTシャツの上へ薄いカーディガンを羽織り、布のバッグを肩へ掛けた。財布、携帯電話、家の鍵を一つずつ指で触って確かめてから、玄関を出る。外には昼間の熱がまだ残り、団地の壁からむっとした空気が押し返してきた。植え込みの湿った土と、どこかの家の蚊取り線香の匂いを吸いながら、富子はサンダルをぺたぺた鳴らして歩いた。
コンビニの自動ドアが開くと、冷たい空気と揚げ物の油の匂いが顔へ当たった。レジの向こうには、会いたかった店員が立ち、宅配便の伝票を輪ゴムで束ねていた。伸びた前髪が眉の上へかかり、坊主頭だったころより少し細く見える。富子の口は考えるより先に動いた。
「やっはろー」
「やっはろー。久しぶりじゃないですか。元気でした?」
「魔塔に監禁されてたのよ。四十階から出してもらえないの」
「それ、ゲームの話ですよね」
「そう。私は七十二歳で、ゲームではレベル七十。それなのに四十階のボスに勝てない。数字なら私が一番大きいのに」
「年齢まで戦闘力に入れたら駄目でしょう」
「七十二年も生きてるんだから、少しくらい加算してくれてもいいじゃない」
富子は店員と話せただけで肩が軽くなり、上機嫌でATMへ向かった。暗証番号を押して一万円を引き出し、取り出し口から出てきた一万円札をきちんと手に取る。以前、現金を取り出し口から取らないまま立ち去ってしまったことがあったので、今回はそこだけは忘れなかった。利用明細も取り、後ろに客がいないか振り返ると、入口近くに貼られた期間限定アイスの広告が目に入った。
「レモン味か。ストロングゼロもダブルレモンにしようかな」
富子の関心は、一万円札から買い物へ一瞬で移った。お札をバッグへ入れたつもりで手を動かし、そのままATMを離れる。菓子売り場で黄色い袋のポップコーンを選び、パンの棚からお気に入りのハムチーズクロワッサンを取った。冷蔵ケースではストロングゼロのダブルレモンを一本かごへ入れ、少し考えて小さなヨーグルトも加えた。
「お酒だけだと怒られそうだから、ヨーグルトで健康を足しておこう」
レジへ行くと、店員はかごの中を見て、ポップコーンの袋を持ち上げた。温めますかと尋ねながらハムチーズクロワッサンを指で示し、富子がうなずくと電子レンジへ入れる。袋の中でチーズが温まり、バターとハムの匂いがレジの周りへ広がった。店員は商品を一つずつ読み取りながら、富子へ笑いかけた。
「今日もいっぱいですね」
「今日はお金持ちだからね。あくる日には空財布になる」
「それじゃ生活できないじゃないですか」
「(((uдu*)ゥンゥン、そうだね」
「納得している場合じゃないですよ。少しは残してください」
「大丈夫よ。今、一万円下ろしてきたから。ほら、今夜の私は一万円長者――」
富子はバッグから財布を出して開き、そこで指を止めた。財布の中には千円札が二枚と、何枚かの小銭しか入っていない。札入れの奥も、カードの後ろも、ファスナーのついた小銭入れも調べたが、一万円札はなかった。富子は眼鏡を押し上げ、もう一度同じ場所を探した。
「ない」
「何がないんですか」
「一万円。さっき下ろしたばかりの一万円がない」
「財布の別のところに入り込んでませんか」
「ない、ない、ない。えええ、どこか落としたのかな。確かにバッグへ入れたのよ」
富子は布のバッグをレジ台へ置き、中身を一つずつ取り出した。ハンカチ、診察券の束、飴玉、使いかけのティッシュ、古いレシート、短くなった鉛筆まで出てきたが、一万円札だけがない。さらにバッグを逆さにすると、輪ゴムとポップコーンほどの大きさに丸まった紙くずが落ちた。鼻の下に汗がにじみ、指先が小刻みに動いた。
「外で落としたのかな。ここへ来る途中だったら、もう誰かに拾われてるよ」
「ATMで下ろしたんですよね」
「うん。今度はちゃんと取り出し口から取ったの。前みたいに置いてきてない。手に持ったのも覚えてる」
「ちょっと待っていてください」
店員はもう一人の店員へ声をかけ、レジから飛び出した。富子も追いかけようとしたが、レジ台にバッグの中身を広げていることへ気づき、ハンカチや診察券を慌ててかき集める。その間にも店内では揚げたての唐揚げを知らせる陽気な音楽が流れていた。魔塔なら負けてもやり直せるが、一万円を落とせば何日分もの食費が消えてしまう。
「ありましたよ!」
店員の声がATMの方から飛んできた。彼は一万円札を片手に持ち、レジへ戻ってきた。富子は一万円札を見て、次に店員の顔を見て、それから遠くにあるATMを見た。店員は息を少し弾ませながら、お札を富子の前へ差し出した。
「どこにあったの?」
「ATMの真ん前です。床に落ちてました」
「真ん前?」
「はい。付近じゃなくて、本当に真ん前です。ATMの足元に、そのまま落ちてました」
「なんで?」
「バッグへ入れたつもりで、落としたんじゃないですか」
「私、確かに入れたのよ。この手で、ちゃんとバッグへ入れたの」
「でも、一万円札はATMの真ん前の床にありました」
「じゃあ、私がバッグだと思ったものは何だったの」
「空気じゃないですか」
富子は店員の顔を見たまま口を開けた。店員は笑いそうになるのをこらえ、唇をきゅっと結んでいる。富子は自分の右手を持ち上げ、ATMでお札を入れたつもりになった動きを再現した。その手はバッグの口へ届く少し前で止まり、指だけがぱっと開いた。
「これだ。バッグへ届く前に手を離してる」
「たぶん、それです」
「一万円を床へ放流したのね」
「放流しないでください。誰かに拾われたら戻ってきませんよ」
「あなたがいてよかった。魔塔のボスより強いわ」
「僕は一万円札を拾っただけです」
「それが今夜の大討伐よ」
店員は一万円札を富子へ渡そうとしたが、途中で手を止めた。まず財布を開けてくださいと言い、富子が素直に差し出すと、札入れの奥へ一万円を入れた。それからファスナーを閉め、財布を富子の両手へ持たせた。富子は胸の前で財布を握り、声を出した。
「一万円、財布に入った。ファスナーを閉めた。よし」
「はい、今度こそ入っています」
「二十歳に七十二歳のお金を管理されてしまった」
「管理しないと床にまいちゃうじゃないですか」
「節分には早かったね」
「一万円をまいても福は来ません。それと、お酒は一本だけにしてください」
「ヨーグルトも買ったから健康的よ」
「お酒にヨーグルトを足しても、健康にはなりません」
「じゃあ、ハムチーズクロワッサンも足す」
「余計に遠ざかっています」
会計を済ませると、富子は釣り銭を受け取り、一枚ずつ財布へ入れた。店員は富子がファスナーを閉めるところまで見届け、それから商品を入れた袋を渡した。温められたクロワッサンから溶けたチーズの匂いが漂い、紙袋越しのぬくもりが富子の手のひらへ伝わった。店員はレジへ戻りながら、魔塔の話を思い出したように振り返った。
「ゲームでも、やることを声に出したらどうですか」
「敵を見る、回復する、逃げる、って?」
「そうです。一万円を財布に入れた、よし、みたいに」
「ATMの真ん前に落とした、なし」
「それも覚えておいてください」
「レベル七十でも勝てなかったこと、笑わない?」
「そこまでレベルを上げるくらい続けたんでしょう。僕なら、何十回も負けたらやめてます」
「やめなかったことだけは、レベル百かもしれないね」
「じゃあ、今度来たときに結果を教えてください」
「次は『やっはろー、四十階を突破したよ』って言うから」
「一万円は落とさずに来てくださいね」
コンビニを出ると、夏の湿った空気が眼鏡を薄く曇らせた。富子は自動ドアの前で立ち止まり、財布を開いて一万円札を確かめた。今度は札を取り出さず、指で端だけに触れてからファスナーを閉める。店内では店員がこちらを見ていたので、富子は財布を掲げた。
「一万円、よし。財布、よし。家の鍵、よし。ハムチーズクロワッサン、よし」
店員は笑いながら両手で大きな丸を作った。富子も空いている手で丸を作り、サンダルをぺたぺた鳴らして団地へ戻った。部屋へ着くころにはクロワッサンは少し冷めていたが、かじるとハムの塩気とチーズの濃い味が口へ広がった。ポップコーンを皿へ少しだけ出し、ストロングゼロは冷蔵庫へ入れ、先に麦茶を一杯飲んだ。
流し台には、モダン焼きを食べた皿がまだ水につかっていた。富子は紺のカーディガンを椅子の背へ掛け、袖をまくって皿を洗った。張りついていたキャベツの切れ端をつまんで生ごみ入れへ捨て、水道の蛇口を閉めたあと、指を差して確かめる。床へ落ちた一万円札の姿を思い出すと、口の端がゆっくり上がった。
「水を止めた、よし。一万円は財布、よし。それから魔塔を一回だけ」
富子は画面の前へ座り、コントローラーを握った。魔天竜ブーネイが動き始めても、技の表示や床の模様を全部見ようとはせず、まず敵の姿だけを見た。慌ててボタンを押したくなる指を一度止め、コンビニの店員に教えられたとおり、一つずつ声に出した。
「敵を見る、よし。攻撃を待つ、よし。回復、よし。焦らない、よし。一万円札をATMの真ん前に落とさない、よし」
最後の確認だけは戦いに何の役にも立たなかった。それでも富子は少し笑い、再び敵へ目を戻した。七十二年生きても、七十レベルになっても、大ポカをする日はある。それなら次は、拾ってもらった一万円を財布へしまうように、一つずつ確かめながら四十階を進めばよかった。




