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老人  作者: 花守かおるこ
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彼は誰時のファミリーマート

彼は誰時のファミリーマート


午前四時、彼は誰時。さっきまで天のバケツをひっくり返したように降っていた雨は、誰かが蛇口を閉めたように止んでいた。六畳の台所では、網戸に残った雨粒が街灯を映し、流しに置いた夕飯のうどん鉢から、薄くなった麺つゆの匂いがしている。薄桃色の部屋着を着た富子は、畳んでいない洗濯物の中から七分丈のズボンを引っ張り出した。


少し前まで、防災板橋の放送が雨音に負けないよう、何度も注意を呼びかけていた。窓の外は白く煙り、三畳ほどの庭に置いた青いバケツから、雨水が滝のようにあふれていた。それなのに今は、軒先から雫が一定の間隔で落ちるだけで、植木鉢の水引草まで何事もなかったように細い茎を起こしている。喉元を過ぎれば熱さを忘れるのは、人間だけの特質ではないらしい。


「防災板橋の放送が流れるほどの集中豪雨だったのにねえ。もう知らん顔してる」


富子が声をかけても、水引草は返事をしなかった。代わりに冷蔵庫がぶうんと鳴り、製氷皿から氷の落ちる音がした。昨日は訪問看護がなく、息子と短く話したほかは、誰とも口をきいていない。テレビには何度も相づちを打ったが、出演者は一度も富子のほうを見なかった。


壁の時計は四時五分を指していた。今日の朝十時を過ぎれば、口座へお金が入る。それまでワオンカードに残っている分は、全部使ってもかまわない。息子が煙草代として少し入れてくれたので、一箱買っても千円くらいは残っているはずだった。


富子は黄色い小銭入れとワオンカードを、紫陽花柄の布バッグへ入れた。昨日飲み残した麦茶を一口飲み、濡れても惜しくない灰色のTシャツへ着替える。鏡の前で髪を手ぐしで押さえたが、右側だけがどうしても跳ねた。誰も見ていないからいいかと思い、今度は向日葵柄の帽子を深くかぶった。


玄関を開けると、雨上がりの空気が腕へまとわりついた。アスファルトには大きな水たまりができ、街灯と電線が逆さまに映っている。道路脇の朝顔は雨に打たれてしぼみ、青紫の花びらを濡れた塀へ張りつけていた。富子は長靴を履いてくればよかったと思ったが、三分の道のりを戻るのは面倒なので、水たまりの端を小股で歩いた。


角まで来たところで、ミニストップの白い看板が頭に浮かんだ。あちらへ行けば、冷たいソフトクリームもある。雨上がりの湿気の中で食べるバニラは、きっとおいしいだろう。しかし、ファミリーマートへ行けば、あの青年がいるかもしれない。


知り合ったころ、彼は十九歳だった。丸坊主で、切れ長の目をした、少しだけ関西の言葉が混じる男の子だった。レジへ煙草の番号を伝えるときに富子が一つ間違え、別の商品を取り出した彼と、顔を見合わせて笑ったのが最初である。二十歳を過ぎた今は髪も伸び、頬から少年らしい丸みが消えつつあった。


「ソフトクリームは、また今度ね」


富子は誰にともなく言い、ファミリーマートの方角へ曲がった。ガラス張りの店は、濡れた道路の上で四角く光っている。自動ドアが開くと、冷房の乾いた風と、揚げ物の油、挽きたてのコーヒーが混ざった匂いが流れてきた。店内には客が一人もおらず、床を磨く機械の低い音だけが響いていた。


レジの中に、青年がいた。紺色の制服を着て、棚の煙草を数えている。以前より少し長くなった前髪が額へかかり、名札の横には初心者マークではなく、新人教育係の小さな札がついていた。富子は思わず両手を上げた。


「いたー。やっはろー」


青年は振り返り、白い歯を見せた。


「おはようございます。富子さん、こんな雨のあとに来たんですか」


「三分だからね。途中で泳いできた」


「長靴でもないのに、どうやって泳いだんですか」


「背泳ぎ。帽子が濡れないでしょう」


青年は声を立てて笑った。その笑い声を聞いた途端、富子は店へ来るまでに考えていたソフトクリームのことを忘れた。これだよ、これ、と胸の中でつぶやいた。人の声に自分の言葉がぶつかり、別の言葉になって返ってくる。それだけのことが、昨日は一度もなかった。


富子は酒の棚から小さなワンカップを一本取り、珍味の棚でいかの七味焼きを選んだ。ついでに梅味の茎わかめをかごへ入れたが、値札を見て戻した。代わりに、見切り品の棚にあったあんパンを手に取る。朝十時になればお金は入るのだから、今くらい少し豪華にしてもよい。


レジへ行く途中、富子はカードの残高を思い出そうとした。煙草を買った日、そのあと牛乳も買った。息子がいくら入れてくれたかは覚えているが、使った金額を足すと、途中から数字が頭の中で入れ替わった。富子はかごを台へ置き、ワオンカードを財布から出した。


「お金、足りるかしら。足りるといいなあ」


青年は商品のバーコードを読み取りながら、少し眉を寄せた。


「金欠ですか」


「うん。いつも空財布」


「それは大変ですね」


「でも、幸せだからいいの」


富子が笑うと、青年はワンカップを小さな袋へ入れ、あんパンとは別にした。いかの七味焼きも酒と同じ袋へ入れようとして、一度手を止める。富子が「それはどっちでもいい」と言うと、青年は少し考えて、あんパンのほうへ入れた。


「僕も、もっとシフトに入らないと家賃がきついんですよ」


「あれ。親の仕送りじゃないの」


「自活しています。家賃も光熱費も、自分で払っていますよ」


「まあ。偉いねえ」


青年は照れたときの癖で、名札の端を親指でこすった。富子は彼が住んでいる部屋を知らない。六畳なのか、風呂がついているのか、今朝のような雨が降ったとき、洗濯物をどこへ干すのかも知らなかった。十九歳だった男の子が、レジの向こうで自分の家賃を払っている。その事実を頭の中へ置くと、急に大きな荷物を見せられたような気がした。


「ご飯は食べてるの」


「食べていますよ。昨日はもやし炒めでした」


「肉は?」


「もやしが九割で、豚肉が一割です」


「一割も入っていたなら立派ね。私なんか昨日、冷たいうどんよ。ねぎも切らして、揚げ玉だけ」


「それは茶色い夕飯ですね」


「あなたのもやし炒めは白い夕飯でしょう」


二人は、どちらの夕飯がましかを少し話した。青年は卵を入れたから自分の勝ちだと言い、富子は麺つゆに生姜を入れたから引き分けだと言った。レジの後ろでは、揚げ物のタイマーが高い音を鳴らしている。青年は「少々お待ちください」と言ってフライヤーへ向かい、富子はその背中を見ながら、あんパンの袋についた小さな水滴を指で拭った。


青年が戻り、会計金額が表示された。富子はカードを読み取り機へ当てる。いつもの鳴き声がして、支払い完了の表示が出た。残高は二百三十七円だった。


「足りたー」


「ぎりぎりじゃないですか」


「二百円も余ったのよ。大金持ち」


「十時までは、その二百円を守ってくださいね」


「はいはい。あなたも家賃を守るのよ」


青年は袋の持ち手を二重にし、富子へ渡した。外を見ると、黒かった空の端が少し白くなっている。水たまりの中にも、細長い朝の色が浮かんでいた。富子は店を出る前に振り返った。


「ねえ、次のシフトはいつ?」


「明後日の同じ時間です。たぶんいますよ」


「じゃあ、家賃を払えている顔か見に来るね」


「そのころには、給料日前でも富子さんのカードにお金があるといいですね」


「それは保証できません」


青年の白い歯が、もう一度こぼれた。自動ドアが閉まると笑い声は聞こえなくなったが、富子の口元には同じ形が残っていた。湿った風はまだ生ぬるく、長靴ではない靴の中へ少し水が入っている。帽子の縁からは、雨粒が一つ、頬へ落ちた。


帰り道、富子は布バッグを両手で抱えた。ワンカップ、いかの七味焼き、あんパン。それだけでも、店へ向かったときより袋は重い。けれど、その中には、もやし九割の夕飯や、青年の家賃や、明後日のシフトまで入っているようだった。


家へ戻ると、流しのうどん鉢はそのままだった。畳の上には脱いだ部屋着が丸まり、テーブルには昨日使った爪切りが口を開けて転がっている。富子はあんパンを皿へ載せ、麦茶を新しく注いだ。ワンカップといかは冷蔵庫へ入れ、朝十時を過ぎるまでは開けないことにした。


庭の水引草には、新しい雨粒が光っていた。さっきまで倒れそうだった細い茎は、もう風に合わせて揺れている。富子はあんパンを半分に割り、粒あんの匂いを嗅いだ。青年が今月も家賃を払い、もやしだけではなく、ときどき豚肉を半分くらい入れられますようにと、声に出さずに祈った。


それから、あんパンを一口かじった。誰かのために祈ったせいで自分の分が減ることはなく、粒あんは端まできちんと入っていた。富子は空いている向かいの椅子へ足を載せ、濡れた靴下を脱いだ。午前十時まで、あと五時間と少しあった。



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