第7話 善意の自壊
第7話 善意の自壊
朝から小雨が降り続き、グランドステージ成城の中庭では紫陽花の花びらが雨粒を受けて重たそうに垂れていた。深山絢香は薄いグレーのカーディガンを制服の上から羽織り、いつものように三十分早く出勤したが、スタッフステーションには凛の姿がなかった。机の上には昨日飲みかけた紙パックの野菜ジュースがそのまま置かれ、賞味期限の切れたヨーグルトも冷蔵庫の隅に残っている。絢香は申し送りノートを開きながら何度も時計へ目を向け、右手の親指で爪の横をこする癖だけが止まらなかった。
「佐々木さん、連絡ありますか」
若い介護士が首を横へ振った。
「電話も出ません」
「家には」
「留守番電話です」
誰も大きな声を出さなかった。ラウンジからはコーヒーを挽く香りが流れ、入居者たちは新聞を読みながら穏やかな朝を過ごしている。その静けさが、現場だけを取り残していた。
昼前になっても凛は現れず、五島施設長は会議室へ職員を集めた。濃紺のスーツを着た五島は資料を机へ並べ、ペットボトルの緑茶を一口飲むと眼鏡を押し上げた。部屋の隅には昨日から回収されていない段ボールが積まれ、蛍光灯の光だけが白く机を照らしている。
「佐々木さんについては本人の問題です」
五島は淡々と言った。
「ですが現場は回さなければならない」
誰も返事をしない。
「敷島様のケアだけは絶対に質を落とさないでください」
絢香は思わず顔を上げた。
「施設長、今はそれより職員の安全が先ではありませんか」
五島は書類を閉じた。
「深山さん」
一拍置いてから静かに言う。
「顧客満足度が落ちれば、この施設そのものが成り立たなくなるんです」
その言葉だけが部屋の空気を重くした。
午後になり、一通の封筒が施設へ届いた。差出人は佐々木凛だった。絢香は震える指で封を開く。中には退職届と、短い手紙が入っていた。文字はところどころ強く筆圧が入り、紙には小さなしわが寄っている。
「もう働けません。皆さんにご迷惑をお掛けしました。本当に申し訳ありません」
それだけだった。
絢香はしばらく紙を見つめたまま動けなかった。昨日まで笑顔で紅茶を運んでいた新人の姿が、何度も頭をよぎる。窓の外では配送業者が台車を押し、何事もない午後が流れていた。
退職手続きのため、ロッカーを整理することになった。凛のロッカーには洗濯したまま畳まれた制服、使いかけのハンドクリーム、小さなポーチ、賞味期限の過ぎたビスケットが一袋入っていた。棚の奥には大学時代の友人と撮った写真があり、皆が笑顔でピースをしている。その下から、一冊のリングノートが見つかった。
絢香はゆっくりページを開いた。
最初の数ページには勤務の反省や覚え書きが並んでいた。しかし途中から文章は変わる。
「主任は私を信じていない」
「みんな私を見下している」
「本当は誰も私なんか必要としていない」
同じ言葉が何度も繰り返されていた。
さらにページをめくる。
「深山主任は私を利用している」
「田村さんは笑いながら私を馬鹿にしている」
「みんな嘘つき」
乱れた文字は最後になるほど大きくなり、ボールペンの跡が紙を破りそうなほど強く刻まれていた。
田村はその場で椅子へ座り込んだ。
「こんなこと……思っていたなんて」
絢香は首を振る。
「違う」
ノートを閉じながら小さくつぶやいた。
「これは、凛さん一人の言葉じゃない」
その夜、スタッフ休憩室には誰も笑顔で入ってこなかった。電子レンジの中には温め忘れた唐揚げ弁当が残り、テーブルには飲みかけのインスタントコーヒーが冷え切っている。壁の時計だけが規則正しく時を刻み、テレビでは旅番組が音だけを流していた。
「私……辞めようかな」
配膳スタッフがぽつりと言った。
「私も」
看護師が続ける。
「次は自分かもしれないって思うと眠れない」
誰も否定できなかった。皆、自分の制服の袖や名札へ視線を落としたまま動かなかった。
翌朝、辞職願が二通、施設長室へ提出された。さらに午後には介護士が一人、「家族と相談します」と言って早退した。人手は日に日に減り、残った職員の勤務表には赤い修正テープが何本も貼られていく。
絢香はもう一度施設長室を訪ねた。
「このままでは現場がもちません」
五島はパソコンから目を離さない。
「募集を掛けています」
「今必要なのは人員だけではありません」
「代わりはいくらでもいます」
五島は静かに言った。
「顧客満足度だけは落とせません」
絢香は何も返せなかった。机の上には売上報告書が積まれ、その横には採用面接の予定表が置かれている。現場の疲弊は数字にならないまま、書類の下へ押し込まれていた。
最上階の特別室では、蒔子がいつものように午後の紅茶を飲んでいた。今日は薄いクリーム色のブラウスに白いカーディガンを羽織り、窓辺の胡蝶蘭へ少しだけ水を与えている。ティーカップをソーサーへ戻す音だけが静かな部屋へ響いた。
「佐々木さんは」
蒔子は新しく担当になった介護士へ尋ねた。
「退職されたそうです」
「そう」
蒔子はそれ以上何も聞かなかった。
窓の外では雨が上がり、夕焼けが庭園を赤く染め始めている。蒔子はガラスへ映る自分の姿を見つめながら、ほんのわずかに口元を緩めた。
施設全体ではナースコールが何度も鳴り、職員たちは足早に廊下を行き来していた。誰もが目の前の仕事に追われ、誰かの異変へ立ち止まる余裕を失っている。壊れていったのは凛一人ではなかった。助けを求める声よりも、現場を回すことだけを優先し続けた毎日の積み重ねが、少しずつ働く人たちの心を削り続けていた。




