第8話 老兵の焦燥
第8話 老兵の焦燥
朝六時過ぎ、雨上がりの庭園では芝生の先に残った水滴が朝日に光り、小鳥の鳴き声が静かな施設の中まで聞こえてきた。深山絢香は白いブラウスの上に薄いベージュのカーディガンを羽織り、コンビニで買った鮭おにぎりを半分だけ食べると、残りをラップに包んで休憩室の冷蔵庫へ入れた。冷めた味噌汁の入った紙コップが昨日の夜勤者の机に残り、散らかった申し送り用の付箋がモニターの横へ貼られたままだったが、不思議と誰もそれを責めなかった。
申し送りが始まると、今までなら介護士と看護師が別々に立っていた円の中へ、配膳スタッフも清掃スタッフも自然に加わった。ベテラン介護士の田村はメモ帳を閉じると、疲れた顔の若い職員へ温かい缶コーヒーを差し出し、肩を軽く叩いた。
「もう一人で抱え込まなくていいからね」
若い介護士は少し驚いた顔をした。
「でも、迷惑を掛けます」
「迷惑じゃないよ。私も昔、同じことを言われて助かったんだから」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
昼前になると、看護師の森本がカルテを抱えてスタッフステーションへ戻ってきた。以前なら自分だけで抱え込んでいた細かな変化を、一つずつホワイトボードへ書き出していく。配膳スタッフは「今日は食欲が落ちている方が多いです」と伝え、清掃スタッフは「敷島様のお部屋のゴミ箱に、破いた紙が増えています」と小さな変化を口にした。誰も「それは自分の仕事じゃない」と言わなくなり、申し送り帳には赤や青の文字が増えていく。
「こんなことでも書いていいんですね」
清掃スタッフが遠慮がちに尋ねた。
「気づいたことは全部教えてください」
絢香は穏やかに笑った。
「小さな違和感ほど、大切だから」
その言葉を聞いた配膳スタッフは、昨日まで胸の中へしまっていた出来事を少しずつ話し始めた。
午後、特別室では蒔子が窓辺で紅茶を飲もうとしていた。薄いクリーム色のブラウスに淡いグレーのカーディガンを羽織り、銀色のティーポットへ手を伸ばす。しかし、指先がわずかに震え、カップへ注ごうとした紅茶が受け皿へ少しこぼれた。蒔子はすぐハンカチで拭き取り、何事もなかったように姿勢を正したが、その一瞬だけ眉が動いた。
担当の介護士が近寄る。
「お手伝いしましょうか」
「必要ありません」
蒔子はそう答えたものの、次の言葉が少し遅れた。
「……ありがとう」
自分でも、その間に気づいたようだった。
夕食前、絢香は蒔子の部屋を訪れた。窓の外では夕焼けが庭園を赤く染め、噴水の水音だけが静かに響いている。テーブルには食べかけのサーモンのムニエルと、小さく切られたメロンが残り、湯気の消えたコンソメスープからはバターの香りがまだ漂っていた。
「今日はお加減はいかがですか」
絢香が尋ねる。
「年相応よ」
蒔子は微笑んだ。
「人は年を取るものだから」
そう答えたあと、小さく咳き込んだ。以前ならすぐ続いていた言葉が、その日はなかなか出てこない。
絢香は黙って水を差し出した。
「ありがとう」
蒔子は受け取ったが、その視線は絢香ではなく、スタッフステーションの方向へ向いていた。
夕方、休憩室では珍しく笑い声が聞こえていた。夜勤へ入る看護師が自宅で漬けたきゅうりの浅漬けを持ってきて、小皿へ分けている。配膳スタッフは昨日余ったプリンを人数分取り分け、介護士たちは冷蔵庫の奥から期限ぎりぎりの牛乳を見つけて笑い合った。机には散らかった書類も残っていたが、その横では「今日はありがとう」「助かったよ」という言葉が自然に飛び交っている。
「深山主任」
田村が湯飲みを持って隣へ座った。
「最近、少し空気が変わったね」
絢香は温かいほうじ茶を一口飲んだ。
「私が変えたんじゃありません」
「うん」
「みんなが、助けてって言えるようになっただけです」
田村は静かにうなずいた。
その頃、蒔子は一人で窓際へ車椅子を寄せていた。スタッフ同士が笑いながら申し送りをする声が廊下から微かに聞こえてくる。以前なら誰かが不満を漏らし、その言葉を拾えば十分だった。しかし今は、一人が困れば周囲が自然と集まり、情報も感情も隠さず共有している。
蒔子は目を閉じた。
(違う……)
その口元がわずかに動く。
(前とは違う)
初めて、自分が言葉を投げても波紋が広がらない感覚を覚えた。
夜になると、特別室の窓へ施設の灯りが映り込んだ。蒔子は鏡のようになったガラス越しに、自分の姿を見つめる。肩は以前より小さく見え、髪を整える右手も少しだけ動きが遅い。若い頃なら一瞬で見抜けた相手の心も、今日は輪郭がぼやけて見えた。
廊下では夜勤職員が笑いながら申し送りを続けている。
「その人、一人じゃ無理だから一緒に行こう」
「ありがとう、助かる」
その何気ない会話が、蒔子には遠くから聞こえる外国語のようだった。
人を一人ずつ切り離して支配する方法は知っている。しかし、互いを支え合う集団の崩し方は知らなかった。
窓の外では夜風が木々を揺らし、雨上がりの土の匂いがわずかに漂ってくる。広い特別室には高価な家具も美しい絵画も並んでいたが、その夜、蒔子の耳へ何度も届いたのは、廊下の向こうから聞こえる職員たちの笑い声だった。それは初めて彼女の思い通りにならなかった、小さくて静かな変化だった。




