第6話 カリスマの乾き
第6話 カリスマの乾き
朝から灰色の雲が低く垂れ込め、グランドステージ成城の庭園では雨に濡れたバラの花びらが石畳へ静かに落ちていた。深山絢香は薄い水色のブラウスに紺色のカーディガンを羽織り、スタッフステーションの窓を少しだけ開けて湿った空気を入れた。机の上には昨夜スーパーで買った鶏そぼろ弁当の空き容器が小さなビニール袋へ入れられたまま置かれ、隣には飲み切れなかった麦茶の水滴が輪を作っている。右手の親指で爪の横をこする癖は、この数日で自分でも驚くほど増えていた。
凛は朝の申し送りにも遅れて現れた。制服の襟元はきちんとしているのに、髪をまとめたゴムだけが少し緩み、目の下には薄い影ができている。田村が声を掛けても短く返事をするだけで、配膳車へ紅茶を載せると真っすぐ特別室へ向かった。絢香はその後ろ姿を見送りながら、申し送り帳へ書かれた「佐々木職員、他業務への参加減少」という一文を何度も読み返した。
「主任、このままでいいんですか」
若い看護師が小さな声で尋ねた。
「よくない。でも、もう現場だけではどうにもならない」
絢香はそう答えると、施設長室へ向かう足を止め、そのまま事務室で入居者家族の連絡先一覧を開いた。画面の中には「敷島賢治」という名前と会社の代表番号が並んでいた。絢香は一度受話器を置いたが、もう一度深呼吸をして電話を掛けた。
午後、施設近くのホテルラウンジで絢香は賢治と向かい合っていた。大きな窓の外では雨が止み始め、濡れた街路樹が風に揺れている。賢治は濃紺のスーツに白いシャツを着ていたが、ネクタイは少し緩み、腕時計を何度も見直す癖があった。テーブルにはアイスコーヒーとサンドイッチが置かれていたが、どちらにもほとんど手をつけていない。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
絢香が頭を下げると、賢治は曖昧にうなずいた。
「母のことでしょう」
「はい。最近、施設内で少し気になることが続いています」
賢治はアイスコーヒーのストローを指先で何度も回した。氷がカランと小さく鳴るたび、その肩がわずかに強張る。
「敷島様は、佐々木という新人職員に強く依存されているように見えます。逆に、佐々木さんも……」
絢香が言葉を選んでいると、賢治は苦く笑った。
「逆ですよ」
「えっ」
「依存しているのは母じゃない。依存させているんです」
ラウンジの静かな空気が一瞬止まった。
賢治はテーブルへ視線を落としたまま続けた。
「母は昔からそうでした。相手が欲しい言葉を先に見つける。そして、その人が自分なしでは立てなくなるまで褒めるんです」
絢香は何も言えなかった。
「会社も、そうやって大きくしました」
賢治は紙ナプキンを何度も折り畳み、また開いた。
「社員も役員も、『自分だけは母に認められている』と思って働いていました。でも気付いた時には、誰も母に逆らえなくなっていた」
絢香は蒔子が凛へ向ける穏やかな笑顔を思い出した。
「ご家族は……止められなかったんですか」
賢治は静かに笑った。その笑顔には疲れだけが残っていた。
「家族が最初でした」
絢香は言葉を失う。
賢治はようやくコーヒーを一口飲んだが、すぐにグラスを置いた。
「父は母の会社を支え続けました。でも最後は家に帰らなくなりました。姉は海外へ行ったまま戻りません。親戚も誰も寄りつかない」
ラウンジでは若い夫婦がケーキを分け合っていた。甘いバターの香りが流れてきても、二人の間だけ時間が止まったようだった。
「母は昔から人の心を操って会社を大きくした。家族も全員壊された。だからここに閉じ込めたんです」
賢治はその言葉を吐き出すと、両手を強く握った。
「高い費用は払います。だから……そっちで適当に処理してください」
最後の一言だけ、小さく震えていた。
「それがお母様のためになると思われますか」
絢香は静かに尋ねた。
賢治は返事をしなかった。窓の外を走る車だけを見つめていた。
「母は会社しか愛していませんでした」
しばらくしてから、それだけ言った。
「私は、一度も名前で呼ばれた記憶がないんです。『後継者』とか『社長』とか、そういう呼び方ばかりでした」
賢治は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「だから施設へ入れた日も、母は私に『会社は大丈夫でしょうね』としか聞きませんでした」
絢香は胸の奥が重くなった。蒔子は息子を失ったのではない。最初から、一人の息子として見ていなかったのかもしれない。
施設へ戻ると、夕食の時間が始まっていた。厨房からは煮魚と味噌汁の香りが流れ、配膳スタッフが慌ただしく廊下を行き来している。凛は特別室から戻ってきたばかりだったが、誰とも目を合わせず、そのまま食器を洗浄室へ運んだ。
「佐々木さん」
絢香が声を掛ける。
「今日はお昼、食べた?」
「敷島様とサンドイッチを少し」
「自分の分は」
「……忘れていました」
ロッカーを開けると、朝買ったツナパンが袋のまま残っていた。パンは少し潰れ、賞味期限のシールが端からめくれている。絢香はそれを見て胸が締めつけられた。
夜、特別室では蒔子が一人で紅茶を飲んでいた。テーブルの上には今日届いた花束が飾られているが、送り主のカードは裏返したままだった。窓の外では施設の灯りが一つずつ点き、ロビーでは夜勤職員が申し送りを始めている。
蒔子は静かに窓ガラスへ映る自分を見つめた。
「賢治は元気だったかしら」
誰もいない部屋でそうつぶやく。
返事はない。
蒔子は紅茶へ口をつけ、カップを置いた。その音だけが静かな部屋へ響く。
テーブルの端には古びた家族写真が一枚だけ置かれていた。若い頃の蒔子と夫、まだ幼い賢治が並んで笑っている。しかし写真立てには細かな埃が積もり、最近触れた跡はなかった。
蒔子はその写真へ一度も目を向けないまま、窓の外を見続けた。庭園には誰もいない。手入れの行き届いた芝生も、噴水も、白いベンチも静まり返っている。広い部屋には高級家具も絵画も揃っていたが、湯気の立つティーカップは一つだけだった。
その静けさは、長い年月をかけて築いた成功の形でもあり、誰も近くに残らなかった人生の形でもあった。絢香はまだ、その部屋の本当の乾きを知らなかった。だが、賢治の震える指先だけは、その乾きがどれほど深いものなのかを物語っていた。




