第5話 聖域のガスライティング
第5話 聖域のガスライティング
梅雨明け前の湿った風が施設の中庭を吹き抜け、朝顔の鉢植えが小さく揺れていた。深山絢香は白い半袖ブラウスの袖を整えながら出勤すると、スタッフステーションの掲示板に新しい担当表が貼られていることに気づいた。昨日まで赤いペンで何度も書き直された跡が残っていた勤務表は、今朝はきれいに印刷されたものへ差し替えられている。その一番上には、「特別室は佐々木凛が専属対応」と太い文字で書かれていた。自宅で食べきれなかった冷めたトーストをアルミホイルに包んで持ってきた絢香は、その袋を机の引き出しへしまいながら、右手の親指で爪の横をこすった。
「施設長の指示です」
事務職員が小さな声で言った。
「敷島様のご希望なので、担当者を固定することになりました」
絢香は掲示板を見つめたまま何も言わなかった。昨日、自分が守ろうとした凛は、今日から以前より長い時間を特別室で過ごすことになる。ラウンジでは焼きたてのパンの香りが漂い、入居者たちは穏やかにコーヒーを飲んでいたが、スタッフステーションだけは誰も雑談をしなかった。
午前十時、凛は薄いピンク色の制服を着て特別室へ向かった。ワゴンにはダージリンティー、手作りのスコーン、小さなブルーベリージャムが並び、白いクロスの上には銀のナイフが整然と置かれている。ドアをノックすると、蒔子は窓辺の椅子で読書をしていた。今日は淡い藤色のブラウスに真珠のイヤリングを合わせ、膝には薄いカシミヤのひざ掛けを掛けている。
「おはようございます、敷島様」
「待っていたわ」
蒔子は本へ栞を挟み、穏やかに笑った。
「今日は誰にも邪魔されないわね」
凛は少し戸惑った。
「専属担当になりましたので……」
「ええ。それが自然だもの」
部屋には紅茶の香りと百合の甘い匂いが混ざり、窓の外では庭師が植え込みを剪定していた。遠くから芝刈り機の音がかすかに聞こえるだけで、この部屋だけ時間がゆっくり流れているようだった。
蒔子は紅茶を注ぎながら、凛の顔をじっと見た。
「昨日は会えなくて寂しかったわ」
凛は照れたように笑う。
「主任が休んだほうがいいって……」
蒔子は静かに首を傾けた。
「深山さんは優しい人よ。でも、本当にあなたのことを考えていたのかしら」
凛は返事に詰まった。
「あなたに何も相談せず、担当を外したのでしょう」
「それは……私が疲れていたから」
「そう言われたのね」
蒔子はカップをソーサーへ戻した。
「人は、本当に大切な相手にはちゃんと相談するものよ」
凛はカップを持つ手に力が入った。紅茶の表面が小さく揺れた。
昼休みになっても凛は食堂へ行かなかった。特別室で蒔子と一緒に小さなサンドイッチを食べ、果物を切り分け、紅茶のおかわりを淹れていた。スタッフ食堂ではカレーライスの匂いが廊下まで流れていたが、凛の机の上には朝コンビニで買った卵サンドが袋も開けられずに残っている。絢香はそれを見つけ、冷蔵庫へ入れておいた。
「佐々木さん、お昼食べてないよね」
「あとで食べます」
「あとじゃなくて今」
「敷島様がお待ちなので」
凛はそう言って笑ったが、その笑顔はどこか急いでいた。
午後、蒔子は窓の外を眺めながら静かに話し始めた。
「昔ね、会社には何百人も社員がいたの」
「すごいですね」
「でも、本当に信じられた人は一人もいなかった」
凛は言葉を探した。
「今は私がいます」
蒔子は少し目を細めた。
「ありがとう。でもね、人はいつか離れていくものなの」
部屋の中へ沈黙が流れた。
「深山さんも、きっと忙しくなればあなたを置いていくわ」
凛は慌てて首を振った。
「主任はそんな人じゃありません」
「そう思いたいわよね」
蒔子は微笑んだまま続けた。
「私も昔は、そう思っていたの」
それ以上は何も言わなかった。
夕方、スタッフステーションでは小さな言い争いが起きていた。看護師が薬の確認を頼むと、介護士が「さっき伝えました」と強い口調で返す。配膳スタッフは「誰もワゴンを片付けてくれない」と机へトレーを置き、空気が張り詰めていく。
「佐々木さん、リネン交換お願い」
田村が声を掛けた。
「今は無理です」
「終わったらでいいから」
「敷島様が優先です」
以前なら「すぐ行きます」と答えていた凛が、今日は相手の顔も見ずに歩き去った。
田村は驚いたように立ち尽くした。
「どうしたの、あの子」
誰も答えられなかった。
夜になり、絢香は記録を書きながら凛の勤務記録を見返していた。特別室で過ごす時間は日に日に長くなり、他の業務は遅れ始めている。それでも勤務評価欄には「敷島様より高評価」とだけ書かれていた。机の上には夕方買ったおにぎりがそのまま置かれ、海苔は湿っていた。窓の外では雨が降り始め、駐車場のアスファルトが街灯をぼんやり映している。
「主任」
若い介護士が近づいてきた。
「最近、佐々木さん、私たちを避けてませんか」
絢香は少し考えてから答えた。
「疲れているだけだと思いたい」
そう言いながら、自分でもその言葉に自信が持てなかった。
最上階では蒔子が照明を落とし、窓際に立つ凛を見ていた。街の灯りがガラスへ映り込み、二人の姿が重なって見える。
「今日はありがとう」
「いえ」
「あなたは本当に優しい子」
凛は少し笑った。
「でも、その優しさを分かっている人は少ないわ」
凛は静かにうつむいた。
その姿を見つめながら、蒔子はティーカップの取っ手を指先でゆっくり回した。部屋の外では夜勤職員が足早に廊下を歩き、ナースコールがどこかで鳴っている。それでも、この特別室だけは別の世界のように静かだった。
ガラス窓の向こうでは雨が少し強くなっていた。施設全体を包むその雨音は、誰にも気づかれないまま、少しずつ現場の声をかき消していった。ここで起きている変化は、一人の悪意だけではなかった。助けを求める声よりも、決められた手順と顧客対応を優先し続けた組織の静かな積み重ねが、この密室を「聖域」に変えてしまっていた。




