第4話 顧客至上主義の檻
第4話 顧客至上主義の檻
朝から強い日差しがガラス張りのロビーへ差し込み、中庭の噴水がきらきらと光を反射していた。深山絢香は白いブラウスに淡いグレーのカーディガンを羽織り、スタッフステーションで申し送り帳を開いたまま右手の親指を無意識にこすっていた。机の隅には朝、自宅で慌てて握ってきた梅干しのおにぎりがラップに包まれたまま置かれ、隣には冷めきった紙コップのコーヒーが残っている。昨夜は帰宅しても洗濯物を畳む気力がなく、ソファの上へ積み重なったタオルを横目にカップ麺だけをすすって眠ってしまったことを思い出し、絢香は小さく息をついた。
佐々木凛はその朝も特別室へ向かう準備をしていたが、制服の胸ポケットからメモ帳を落としても気付かないほど表情に余裕がなかった。配膳車へティーカップを並べる手は以前より慎重になった一方で、誰かに声を掛けられるたび肩を震わせるようになっている。絢香は凛の顔色を見て、夜勤担当へ勤務表を引き寄せた。数秒考えたあと、赤いボールペンで午後の担当欄を書き換え、凛の代わりに別の職員の名前を書き込んだ。
「今日は特別室の担当を交代してもらうね。少し休もう」
凛は目を丸くした。
「私、何か失敗しましたか」
「違うよ。最近ずっと張り詰めているでしょう。少し別のフロアを回ろう」
凛は返事をしたものの、どこか落ち着かない様子で何度も特別室の方角を見ていた。その姿を見送りながら、絢香は胸の奥に引っ掛かっていた小さな石をようやく動かせた気がした。
午後になり、特別室では蒔子が白い麻のブラウスに藤色のストールを肩へ掛け、銀のティーポットからゆっくり紅茶を注いでいた。窓辺には白いカサブランカが飾られ、部屋いっぱいに甘い香りが広がっている。今日は凛ではなく、ベテラン介護士の田村が紅茶を運んできた。田村は丁寧に一礼してワゴンを置いたが、蒔子は周囲を見回し、不思議そうに首をかしげた。
「今日は佐々木さんではないのね」
「はい。担当が変わりましたので」
「そう」
蒔子はそれ以上何も聞かなかった。ただティーカップを持ち上げる指先が、ほんのわずかに止まった。
その日の夕方、施設長室には高級和菓子店の羊羹が木箱に入ったまま机へ置かれていた。五島誠はネクタイを少し緩め、売上表と入居率の資料を見比べながら缶コーヒーを飲んでいた。窓の外では送迎車が一台ゆっくり門を出ていく。ノックの音が響き、秘書役の事務職員が静かに頭を下げた。
「施設長、敷島様がお話ししたいそうです」
「すぐ伺います」
五島は鏡でネクタイを整え、上着の襟を引き直して最上階へ向かった。
特別室では蒔子がソファへ腰掛け、ティーカップを両手で包んでいた。夕日が大きな窓から差し込み、部屋の中を柔らかな橙色に染めている。テーブルには半分ほど食べたレモンケーキが皿に残り、銀のフォークだけが静かに光っていた。
「施設長さん、お忙しいところありがとうございます」
「とんでもございません。何かご不便でもございましたか」
蒔子はすぐには答えず、紅茶を一口飲んだ。
「深山さんという主任の方、とても真面目で優秀ですね」
「ええ、自慢の主任です」
「それだけに、少し残念でした」
五島の笑顔が一瞬止まる。
「残念……でしょうか」
「我が社では、お客様との信頼関係を何より大切にしておりました。担当者を変更する場合も、まず相手の気持ちを考えるものです」
蒔子は責める口調ではなかった。昔の経営者が若い社員へ穏やかに助言するような声だった。
「佐々木さんは、とても誠実な方です。突然会えなくなってしまって、私も少し驚きました」
「申し訳ございません」
「深山さんは忙しすぎるのでしょうね。だから、おもてなしの心まで手が回らなくなってしまったのかもしれません」
その言葉には怒りも皮肉もなかった。だからこそ五島は深く頭を下げた。
「ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」
蒔子は静かに微笑んだ。
「私は苦情を言いたいわけではありません。ただ、この素晴らしい施設には、もっと良くなってほしいだけです」
施設長室へ戻った五島は、すぐに内線電話を取った。
「深山さん、少し来てください」
数分後、絢香は書類を抱えて部屋へ入った。五島の机には契約書が山積みになり、赤いペンが何本も転がっている。冷房は効いているはずなのに、部屋の空気は重かった。
「担当変更をしたそうだね」
「はい。佐々木さんの様子が限界だと判断しました」
「誰の許可を取った」
「現場判断です」
五島は資料を机へ置き、声を少し強くした。
「現場判断で最重要VIPのお客様を不安にさせるのか」
「でも、凛さんは……」
「君は主任だろう。現場だけ見ていたら施設は回らない」
絢香は黙って立っていた。
「敷島家は特別なお客様なんだ。年間どれだけの収益をもたらしてくださっていると思う。クレーム一つで施設全体の信用が揺らぐ」
「私はクレームより、現場の職員を守りたかったんです」
五島は机を軽く叩いた。
「それは順番が違う。まずお客様だ」
その一言で部屋は静まり返った。
絢香は何も言い返せなかった。施設長室を出ると、ロビーには焼きたてのスコーンの甘い香りが漂い、ラウンジでは入居者たちが穏やかに笑っていた。新人職員が紅茶を配り、ピアノの自動演奏が静かに流れている。その光景だけを見れば、誰もが理想的な老人ホームだと思うだろう。けれどスタッフステーションへ戻ると、誰も雑談をしていなかった。パソコンのキーボードを打つ音だけが乾いて響き、申し送り帳には修正液の白い跡がいくつも残っていた。
凛は倉庫でタオルを畳んでいた。絢香の姿を見ると立ち上がったが、以前のような笑顔は出てこない。
「主任……私のせいで怒られましたか」
絢香は首を横に振った。
「違うよ。気にしなくていい」
「でも、敷島様は私を待っていると思います」
その言葉を聞いた瞬間、絢香は胸の奥がざわついた。凛は蒔子の体調よりも、自分が会えないことばかりを気にしている。その変化が何を意味するのか、まだ言葉にはできなかった。
最上階の特別室では、蒔子が夕焼けに染まる庭園を眺めていた。芝生へ散水する水が光り、ガラス窓には部屋の中の景色がぼんやり映っている。蒔子はティーカップをソーサーへ静かに戻し、口元へ小さな笑みを浮かべた。
「火は、人が油を注いで初めて大きく燃えるのよ」
その部屋には紅茶の香りだけが残っていた。けれど施設のどこかでは、目に見えない炎が、静かに勢いを増し始めていた。




