第3話 ガソリンを撒く男
第3話 ガソリンを撒く男
朝から厚い雲が空を覆い、グランドステージ成城の中庭では散水機の代わりに細かな雨粒が芝生を濡らしていた。深山絢香は水色のブラウスの上から紺色のカーディガンを羽織り、スタッフステーションで夜勤記録を読み返していたが、帳面の隅には慌てて書き直した跡が何か所も残っていた。昨夜は帰宅しても食欲がなく、冷蔵庫に入れておいたアジの開きと冷めた味噌汁を温め直す気力もなく、そのまま食卓へラップをかけて眠ってしまった。朝になって流し台に立ったとき、自分でも気づかないうちに右手の親指で爪の横をこすっていた。
「主任、おはようございます」
佐々木凛が元気よく頭を下げた。制服のピンク色のポロシャツはきちんとアイロンがかけられ、髪も以前より丁寧にまとめられている。絢香は少し安心したが、その直後、ベテラン介護士の田村が凛へ向けた視線だけは冷たかった。
「佐々木さん、昨日お願いしたリネン交換、終わってなかったでしょう」
「えっ……終わったと思っていました」
「私が最後にやったのよ」
凛は何か言い返そうとして口を閉じた。以前ならすぐ謝っていたが、その日は田村の目をまっすぐ見返し、小さく首をかしげただけだった。絢香はその変化に違和感を覚えたが、朝食介助の時間が迫り、それ以上話を聞くことができなかった。
昼前になると、施設のあちこちで小さな食い違いが起き始めた。配膳スタッフは「看護師が食事変更を伝えてくれなかった」と不満を漏らし、看護師は「介護士から何も聞いていない」と言い返す。厨房では白い帽子をかぶった調理員が、おかゆを作り直しながら首を振っていた。食堂には煮魚の香りが広がり、茶碗蒸しから湯気が立っているのに、誰も料理の話をしなかった。
「最近、みんなピリピリしてるね」
配膳係の女性が小さくつぶやくと、隣の職員は紙コップのコーヒーを飲み干した。
「人が足りないからじゃない?」
「それだけかな」
誰も答えなかった。壁の時計だけが静かに秒を刻み続けていた。
午後、凛はいつものように特別室へ紅茶を運んだ。今日は白いレースのクロスの上に、レモンのパウンドケーキが切り分けられ、小さなガラス皿には季節のぶどうが並んでいる。蒔子は窓辺で本を閉じ、穏やかな笑顔を浮かべた。
「今日は少し疲れているみたいね」
「そんなこと……」
「目の下に少し影ができているわ」
凛は苦笑した。蒔子はカップへ紅茶を注ぎながら、何気ない調子で尋ねた。
「深山さんは、いつもあんなに忙しいの?」
「主任は、みんなの仕事まで引き受けちゃうから……」
「まあ」
「夜も残って記録を書いていますし、施設長ともよく話しています」
蒔子は何も評価しなかった。ただ静かに頷き、紅茶へ角砂糖を一つ落とした。
「責任のある人は、大変ね」
その一言だけだった。
数日後、蒔子はラウンジで他の入居者と紅茶を飲んでいた。柔らかなクリーム色のブラウスを着た女性入居者が「最近、若い職員さんは忙しそうね」と話しかけると、蒔子はカップを置き、少し考えるような表情を見せた。
「深山さんは、本当によく頑張っているわ。でも、全部一人で抱え込む方だから、周りが心配になるの」
「まあ、そうなの」
「佐々木さんという新人さんも、一生懸命だけれど、少し放っておかれているみたいで」
あくまでも心配そうな口調だった。その場に悪意は見えなかった。しかし、その話は午後には介護士へ、夕方には看護師へと伝わっていった。
「主任は新人を放ってるらしい」
「佐々木さん、かなり我慢してるみたいよ」
「だから最近元気がないのか」
誰も蒔子の名前は出さなかった。噂だけが歩いていった。
その日の夕方、スタッフステーションでは申し送りの空気が重かった。配膳スタッフは書類を机へ置く音が少し強くなり、看護師はパソコンのキーボードを普段より速く打っていた。絢香は一人ずつ表情を見回しながら、胸の中で何かが少しずつ噛み合わなくなっていることを感じていた。
「最近、何かあった?」
誰も答えない。
「気になることがあったら話して」
沈黙だけが残った。
帰宅した夜、絢香は洗濯物を取り込みながら空を見上げた。雨は止んでいたが、湿った風がベランダへ吹き込んでいる。台所では朝のまま置きっぱなしだった麦茶のポットに水滴が付き、炊飯器の保温ランプだけが小さく光っていた。冷蔵庫から冷ややっこを取り出し、生姜を少しだけのせたが、箸はなかなか進まなかった。
翌朝、絢香は施設長室を訪ねた。五島誠は白いワイシャツの袖を肘までまくり、デスクの上へ積まれた契約書に目を通していた。机の端には飲みかけの缶コーヒーと、高級和菓子店の紙袋が置かれている。壁には稼働率の表が貼られ、赤い数字が並んでいた。
「施設長、お時間よろしいでしょうか」
「どうした、深山さん」
「敷島様の担当を、一度変更したいと思っています」
五島はペンを止めた。
「理由は?」
「現場の空気が少しずつ変わっています。明確な証拠はありませんが、スタッフ同士の不信感が広がっています」
五島は椅子へ深く座り直した。
「深山さん、それは考えすぎじゃないかな」
「ですが……」
「敷島家は最重要VIPだ。年間どれだけ施設へ貢献してくださっていると思う?」
絢香は黙っていた。
「人件費は年々上がっている。空室を作るわけにもいかない。クレームなんて絶対に避けなければならないんだ」
「でも、現場が……」
五島は静かに首を振った。
「現場は現場で工夫してくれ。お客様に不安を与える対応だけは困る」
絢香は返す言葉を失った。部屋を出ると、廊下の窓から午後の日差しが差し込み、中庭では入居者たちが穏やかにお茶を飲んでいた。遠くでは凛が蒔子の車椅子を押しながら何かを話し、蒔子は静かに笑っている。その光景だけを見れば、この施設には何の問題もないように見えた。
最上階の特別室では、蒔子がティーカップを持ったまま窓の外を眺めていた。中庭では施設長の五島が営業担当者と握手を交わし、ロビーでは新人職員が慌ただしく走っている。蒔子はその様子を見つめながら、カップの縁を人差し指で静かになぞった。
「火は小さいうちは誰も気づかないのよ」
その声は誰にも届かなかった。だが、乾いた草の上へ落ちた火種のように、小さな違和感は静かに施設全体へ広がり始めていた。




