第2話 依存という名の毒
第2話 依存という名の毒
朝から蒸し暑い空気が施設の搬入口にまで流れ込み、制服のポロシャツが背中に張り付いていた。佐々木凛は淡いピンク色のポロシャツの袖を何度も引っ張りながら、配膳車を押して廊下を急いでいたが、カップを一つ傾けてしまい、紅茶が白い受け皿に少しこぼれた。慌ててハンカチで拭き取ったものの、後ろから聞こえた先輩職員のため息に肩が小さく震えた。
「佐々木さん、急ぐのは分かるけど、もう少し落ち着いて。特別室のお客様なんだから」
凛は何度も頭を下げた。昼休みになっても食堂へ行く時間がなく、ロッカーに入れておいたコンビニの鮭おにぎりは冷たいまま袋の中で少し潰れていた。朝、自宅のベランダに干した洗濯物を取り込まずに来てしまったことを思い出し、午後から雨が降るという天気予報が頭をよぎったが、スマートフォンを見る余裕もなかった。
午後になり、深山絢香は記録用のタブレットを閉じながら凛の顔色を見た。目の下には薄く影ができ、髪をまとめたゴムも少し緩んでいる。絢香は冷蔵庫から麦茶を取り出して紙コップへ注ぎ、凛の机にそっと置いた。
「少し座ろう。今日は休憩をちゃんと取って」
「でも、敷島様のお部屋へお茶を運ぶ時間で……」
「五分くらい大丈夫だから」
凛は麦茶を一口飲み、ようやく小さく息を吐いた。スタッフステーションにはコピー機の動く音が響き、壁の時計だけが規則正しく秒を刻んでいた。
そのころ、最上階の特別室では敷島蒔子が窓辺の椅子に座り、銀色の急須からゆっくりと紅茶を注いでいた。白いレースのクロスの上には焼き菓子が二つ並び、レモンの香りが部屋の中へ静かに広がっている。ドアをノックした凛は制服の襟を整えてから部屋へ入り、慎重にティーワゴンを止めた。
「失礼いたします。午後のお茶をお持ちしました」
蒔子は本を閉じると、凛の手元へ視線を移した。カップを置く指先がわずかに震えていることも、額に汗が浮かんでいることも見逃さなかった。
「ありがとう。あなた、お名前は?」
「佐々木……凛です」
蒔子は微笑み、小さな皿へ焼き菓子を一つ移した。
「一緒に座りなさい。こんなにたくさんあっても、一人では食べきれないもの」
凛は慌てて首を振った。
「勤務中ですから」
「紅茶が冷めるまでの数分くらい、誰にも迷惑はかからないでしょう」
部屋には静かなクラシック音楽が流れ、窓の外では庭師が芝生へ散水していた。細かな水しぶきが午後の日差しに光り、部屋の中まで涼しそうな景色を運んでくる。凛は少しだけ迷ったあと、椅子へ浅く腰を下ろした。
蒔子は凛の前へ白いカップを差し出した。紅茶から立ち上る香りは、スタッフ食堂のティーバッグとはまるで違っていた。凛は両手でカップを包み込み、その温かさに少しだけ肩の力が抜けた。
「先輩に、よく叱られるのでしょう」
凛は驚いて顔を上げた。
「……どうして分かったんですか」
「人は疲れると、肩ではなく指先から硬くなるの。あなたはカップを置くとき、割らないように息まで止めていた」
凛は思わず笑ってしまった。その笑顔は、朝から初めて自然にこぼれたものだった。
「私、本当に仕事が遅くて」
「違うわ」
蒔子は静かに首を振る。
「遅いんじゃない。丁寧なのよ」
凛は何も言えなかった。誰かにそう言われた記憶がほとんどなかったからだ。母親も共働きで忙しく、学校でもアルバイト先でも、「もっと早く」と言われ続けてきた。カップの中の紅茶が少し冷めても、凛は手を離せなかった。
それから数日、凛は午後になると自然と特別室へ足が向くようになった。蒔子は日によって和紅茶を淹れたり、海外の紅茶を出したりしながら、季節の花や昔の旅行の話を聞かせてくれた。ある日は庭で摘んだミントの葉を浮かべ、ある日は小さなレモンケーキを半分に切って分けてくれた。施設では誰もが時間に追われていたが、この部屋だけは時計の針が少しゆっくり進んでいるようだった。
「深山主任って、いつも忙しそうですよね」
凛が何気なく言うと、蒔子は紅茶を一口飲み、窓の外へ目を向けた。
「責任のある立場だからでしょう。でも、人は忙しくなると、大切なものを見落とすことがあるの」
「主任は優しい人です」
「ええ、そうでしょうね」
蒔子は否定もしなければ肯定もしなかった。その曖昧な返事が、凛にはかえって続きを話したくなる余白になった。
「でも最近、夜勤の先輩と施設長がよく言い合いをしていて……」
凛は口を押さえた。
「ごめんなさい。こんなこと話しちゃいけませんよね」
蒔子は穏やかな笑顔を崩さなかった。
「安心して。私は誰にも話さないわ。ただ、あなたが少しでも楽になるなら、それでいいの」
凛は胸につかえていたものが少し軽くなる気がした。特別室を出るころには、足取りまで朝とは違っていた。
その夜、スタッフステーションでは申し送り帳の横に飲みかけの缶コーヒーが置かれたままになっていた。深山絢香は記録を確認しながら、凛が最近よく特別室へ足を運ぶことに気づいていた。勤務熱心なのだろうと思いながらも、以前より凛が蒔子の予定を誰よりも気にするようになっていることが少し引っ掛かった。
一方、最上階の窓辺では蒔子が静かにカーテンを閉めていた。テーブルの上には空になったティーカップが二つ並び、その隣には凛が落としていったメモ用紙が一枚だけ残っている。蒔子はそれを拾い上げることもなく、窓ガラスへ映る自分の姿を眺めたあと、小さく口元を緩めた。
「人は、自分の話を聞いてくれる相手を忘れないものなのよ」
部屋には紅茶の香りだけが残り、静かな夜がゆっくりと更けていった。




