夜の公園と億り人
夜の公園と億り人
六月の夜は湿気をたっぷり含んでいた。富子は六畳の和室の壁時計を見上げ、十一時を少し回ったことを確認すると、畳の上に置いていた小さなトングと透明なごみ袋を手に取った。薄い花柄の半袖ブラウスに紺色の七分丈パンツ、足元は履き慣れた運動靴だ。台所の流しには夕飯の冷ややっこときゅうりの浅漬けの皿が重ねてあり、麦茶の入ったやかんがまだ冷たかった。
富子は財布の中身を確認する癖がある。年金の振込日、生活保護費の入金日、病院の予定、自立支援の更新日。小さな手帳には何度も消して書き直した跡があり、紙の端が少し毛羽立っている。富子の年金と和俊の障害年金だけでは足りない部分を生活保護が支えてくれている。精神科の受診料も訪問介護も自立支援で賄われているから、二人とも治療を続けることができていた。
「ありがたいねぇ、本当に」
富子はそう言って手帳を閉じた。昔は人に助けてもらうことに慣れなくて、何かを受け取るたびに肩をすぼめていた。でも今は違う。社会に支えてもらっているなら、できる範囲で返したいと思うようになった。
アパートを出ると、夜の空気は少しぬるかった。一階なので、昼間に熱を持った土の匂いがまだ残っている。近所の公園までは歩いて五分。途中の家の紫陽花が街灯に照らされて、青や紫の花びらがぼんやり浮かんでいた。富子はゆっくり歩く。急ぐ理由はないし、転ぶのも嫌だ。昔から、急いで良いことがあった試しがない。
公園には誰もいなかった。ブランコが風で少し揺れ、鉄の鎖がきい、と鳴る。ベンチの下には空き缶が一本、コンビニの袋が二つ。富子はトングでつまみ、ごみ袋へ入れる。
かさ。
小さな音がした。
それだけで少し嬉しい。
「今日も一個」
富子は独り言を言う。
「一億ゴールド持ってても、現実のお金は増えないしねぇ」
思わず笑ってしまった。
アストルティアのみるくは億り人だ。銀行と所持金を合わせれば一億ゴールドを超えている。防具鍛冶をカンストして、高級装備には手を出さず、汗と涙の結晶装備を黙々と作って貯めた財産だ。
でも現実の富子は、財布の小銭を数えてからスーパーへ行く。
特売の豆腐を買い、見切り品の野菜を探す。
それでも、どちらの富子も嫌いじゃない。
ゲームの中で派手な金策をしないのも、現実で地味に暮らしているのも、たぶん同じ性分なのだろう。
富子はベンチの周りを見回した。煙草の吸い殻が三本落ちている。
「もう、誰よぉ」
そう言いながら拾う。
自分も昔は吸っていた。
煙草代を計算して、
「うわぁ……」
と頭を抱えたこともある。
やめられないものがあるのは、少しわかる。
だから怒りきれない。
拾って、袋に入れて、おしまい。
夜風が吹いた。
ブラウスの裾が揺れる。
遠くで電車の音がした。
富子は空を見上げる。
雲の切れ間に、星がひとつだけ見えていた。
アストルティアにも星空がある。
現実にも星空がある。
どちらも手は届かないけれど、見上げればちゃんとそこにある。
「私ね」
富子は誰に言うでもなく呟いた。
「社会にいっぱい助けてもらったの」
言葉は夜に溶けていく。
返せるものなんて、ほんの少しだ。
ごみを拾うこと。
挨拶をすること。
病院へちゃんと通うこと。
今日をちゃんと生きること。
それくらいしかできない。
でも、それでいい気がしている。
ごみ袋の中には空き缶が二本、吸い殻が五本、菓子袋が三つ。
たいした量じゃない。
それでも公園は少しきれいになった。
富子は満足そうに頷き、家へ向かって歩き出す。
六畳の和室には古いパソコンが待っている。
画面の向こうでは、億り人のみるくが結晶装備を叩いているはずだ。
現実では生活保護。
ゲームでは一億ゴールド。
どちらも富子の人生だった。
そして明日もまた、富子はごみを拾い、麦茶を飲み、アストルティアで汗と涙の結晶を作る。
地味で、忙しくて、案外悪くない毎日だった。




