タイトル未定2026/06/20 03:00
億り人みるくの原点
六月の夜だった。六畳の和室には扇風機がぶうんと音を立て、畳の上には洗濯物を取り込んだままの山ができている。富子はピンク色のTシャツに膝までの半パン姿で、台所から持ってきた麦茶をすすりながら画面を見つめていた。机の端には食べ終わったアジの開きの皿が置かれ、骨だけがきれいに並んでいる。
画面には、見慣れた数字が表示されていた。
所持金+銀行。
一億四百九十三万四千十ゴールド。
富子は腕を組み、わざと偉そうな顔をする。
「ふふふ。みるくは億り人なのら」
もちろん、誰も褒めてくれない。
だから自分で拍手する。
ぱちぱちぱち。
六畳の和室に、乾いた音が響いた。
「いやぁ、我ながらすごいねぇ」
そう言ってニヤニヤするが、その隣には使い古した電卓が転がっている。数字を積み上げる癖は、現実でもゲームでも変わらなかった。富子は防具鍛冶職人をカンストしている。けれど、みんなが憧れる高レベル装備を作ったことはほとんどない。
失敗したら赤字。
成功しても売れるとは限らない。
それより汗と涙の結晶装備をひたすら作る。
安く仕入れ、黙々と叩き、少しずつ利益を積み上げる。
派手さはない。
でも確実。
富子は昔の帳面を見るように、銀行残高を何度も開いては閉じた。
「一攫千金なんて性に合わないのよ」
そう呟いて、キーボードを指先でとんとん叩く。
実際、人生もそうだった。
一気に何かを得たことはない。
毎日ご飯を作って、洗濯して、病院へ行って、本を読んで、失敗して、また起きて。
そうやって今日まで来た。
ゲームの中でも同じだった。
だから一億ゴールドは、富子にとって宝くじではない。
十二年分の生活費みたいなものだった。
けれど、そんな富子にも極貧時代がある。
画面のドルボードを見るたび、昔を思い出す。
まだ始めたばかりの頃。装備なんて買えない。結晶装備どころか、まともな武器もない。町でキラキラした装備の人を見るたび、
「すごいねぇ」
と感心するだけだった。
そんなある日、思い切って課金してドルボードを買った。
富子は嬉しくて仕方なかった。
家の中をぐるぐる走り回った。
和室で足踏みしながら、
「見て見て! バイク買った!」
と誰もいないのに叫んだ。
だが、しばらくして燃料という存在を知る。
「え?」
燃料が減る。
補充しないと走れない。
お金がかかる。
富子は真顔になった。
そして。
走った。
ドルボードを持っているのに。
走った。
草原も。
砂漠も。
雪原も。
とにかく走った。
「燃料もったいない!」
ドルボードを鞄にしまい、よたよた走るみるく。
横を他のプレイヤーが颯爽と駆け抜けていく。
富子は画面の前で、
「いいの! 歩くの好きだから!」
と強がった。
でも、本当は燃料代が怖かった。
百ゴールドも惜しかった。
それが今では一億ゴールド。
ドルボードの燃料なんて、気にせず走れる。
いや、走れるのに。
癖で走ってしまう。
「あ、ここ近いから歩こう」
と、気づけば徒歩。
億り人なのに。
富子は吹き出した。
「貧乏性って治らないのねぇ」
扇風機の風で洗濯物が少し揺れる。台所では冷蔵庫がぶうんと低い音を立てている。麦茶の氷はとっくに溶けて、コップの外側に水滴がついていた。
富子はゲームパッドを握り直した。
左スティックは少し怪しい。
いつ壊れるかわからない。
パソコンも古い。
家具は高い。
現実の物価も上がる。
アストルティアも上がる。
それでも。
みるくは今日も結晶装備を叩く。
カン、カン、カン。
失敗しないように慎重に。
派手な一発はない。
でも少しずつ増えていく。
十二年前、燃料代を惜しんで走っていた少女みたいなおばあさんは、今も同じ顔で笑っている。
「億り人になってもさ」
富子は画面の中のみるくを見つめて言った。
「やっぱり、地味にコツコツが好きなんだよね」
そう言って、今日もまた結晶装備を作る。
一億ゴールドを持っていても、明日の材料費を計算する。
それが、アストルティアの億り人。
みるくの、ちょっとせこくて、とても誇らしい生き方だった。




