ゲーマーの家計簿
ゲーマーの家計簿
六月の雨は朝からしとしと降っていた。富子は小さなアパートの窓を少しだけ開け、湿った風を部屋に入れていたが、結局じっとりした空気に負けて扇風機を回した。よれよれの青いTシャツにステテコ姿で、朝の残りの味噌汁を温め直し、ご飯を放り込んで猫まんまにする。テーブルには薬のシート、読みかけの文庫本、そして十二年使い続けたゲームパッドが転がっていた。親指のゴムはすり減り、左スティックは少し傾いている。
「お前も、ずいぶん働いたねぇ」
富子はゲームパッドを撫でた。新品の頃はつやつやしていたのに、今では手汗と年月でつやが消え、握る部分だけ色が変わっている。人間の顔に皺が増えるように、道具にも歴史が刻まれるのだと思う。そう考えながらログインすると、アストルティアの家に飾ってある家具が目に入った。
パピヨン家具セット。十二年前に千円ちょっとで買えたお気に入りだ。白い羽根模様の椅子とテーブルを見ていると、当時の自分を思い出す。あの頃はまだ、ゲームの課金なんてお菓子を一つ我慢すれば済むくらいの感覚だった。
「それが今じゃあ、星詠み家具が千七百六十円、和モダン五千五百円だって」
富子は思わず肩をすくめた。
「ひ―――!」
誰もいない部屋なのに、ちゃんと声に出して驚く。窓の外では洗濯物が雨で乾かず、部屋干しのタオルから生乾きの匂いが漂っている。こんな日は節約のためにエアコンを我慢したいが、汗疹がひどくなるので仕方なく除湿を入れる。現実の電気代も、アストルティアの家具も、気づけばじわじわ値上がりしていた。
富子はふと、自分の財布を思い出した。生活費の封筒、病院代の封筒、煙草代の封筒。そしてゲーム代の封筒。昔はゲーム代なんて最後の余りだったのに、今ではちゃんと予算の一部になっている。
「老人ホームの積立より真面目に考えてる気がする」
そう言って笑い、麦茶を飲む。冷蔵庫にはアジの開きが一枚ある。明日の朝に食べようと思って買ったのに、もう今日食べてしまおうかと悩んでいる。七十二歳になると、明日を待たずに今日を楽しむ言い訳が増えていく。
ところが、本当に困っているのは家具ではなかった。
富子はゲームパッドを両手で持ち、左スティックをぐるぐる回す。カクッ、カクッと変な音がする。嫌な予感しかしない。
「またかぁ……」
去年も壊れた。その前も壊れた。下手をすると一年持たない。ボタンがへたったり、スティックが暴走したり、急に十字キーが効かなくなったりする。まもの使いで魔物を呼ぼうとして、なぜかぴょんぴょん飛び跳ねたこともある。
「私より先に寿命が来るんじゃないの?」
そう言いながら、富子はゲームパッドを軽く叩いた。
「頑張れよぉ。あと半年は働いてくれ」
もちろん返事はない。けれど、なぜか機械にも情が湧く。冷蔵庫も洗濯機もパソコンも、長く使うと家族みたいになる。壊れそうになると、
「まだいける!」
と励ましてしまうのだ。
パソコンのほうも気がかりだった。十二年前に買った機械は、最近ちょっと動きが遅い。サポートもそろそろ怪しい。起動するたびに、
「今日も頼むよ」
と本気でお願いしている。
「パソコン買って、ゲームパッド買って、家具は我慢して……」
富子は指を折って計算する。
「いや、待てよ。課金の基本料よりゲームパッド代の方が高くない?」
気づいてしまった。
月額料金より、壊れる周辺機器のほうが金がかかる。
それなのに。
それなのに、やめる気はまったくない。
夜になるとログインしたくなる。新しいイベントが始まれば覗きたくなる。レベルが上がれば嬉しいし、家具を見れば欲しくなる。
富子は椅子にもたれ、雨粒が窓を叩く音を聞いた。湿った空気の中で、扇風機がぶうんと回っている。画面の中では、まもの使いのみるくが元気よく笛を吹き、サポート仲間が敵をなぎ倒していた。
「俺TUEEE!!」
富子は小さく叫ぶ。
もちろん強いのはサポートだ。
自分は後ろで呼んでいるだけだ。
でも、それでいい。
人生だってそうだった。自分一人で頑張れたことなんて、ほとんどない。家族に助けられ、友達に助けられ、病院に助けられ、本に助けられ、ゲームにも助けられてきた。
だから今日も胸を張って言う。
「私は弱い!」
そして少し間をおいて、
「でも、ゲーマーだからやめない!」
雨はまだ降っている。汗疹はかゆい。財布は軽い。ゲームパッドは今にも壊れそうだ。
それでも富子は、嬉しそうにログインボーナスを受け取り、いつものように魔物を呼ぶ。
アストルティアの物価も現実も、容赦なく上がっていく。
それでも遊びたい。
それが、七十二歳の富子の、誰にも負けない生き方だった。




