玉手箱の中身
玉手箱の中身
六月の終わりが近づいていた。富子は小さなアパートの部屋で、扇風機を弱にしたままパソコンの前に座っていた。窓は少しだけ開けてあり、湿った風がレースのカーテンをゆらゆら揺らしている。Tシャツの襟元は汗で少し湿り、首にはあせもの薬を塗った白い跡が残っていた。冷蔵庫には昨日の具だくさん味噌汁が残っていて、昼はそれにご飯を入れて猫まんまにする予定だ。そんなことを考えながら、富子は画面の中の職業一覧を見て、つい声を出して笑った。
「ほんと、何やってんだろうねぇ」
戦士、僧侶、魔法使い、武闘家、盗賊、旅芸人。ずらりと並ぶ職業のほとんどがレベル一四〇になっている。まもの使いも天地雷鳴士も一四〇。ところが、使いこなせるかと聞かれれば首を横に振るしかない。ボスの技はよく分からないし、避けろと言われても、どこへ避ければいいのか迷っているうちに死んでしまう。それでも、毎日少しずつ経験値を積み上げてきた結果だけは、こうして数字になって残っていた。
「遊び人は百三十二か。隠者なんて百二十二だよ。まだまだ先は長いねぇ」
そう言いながら、富子はマウスをくるくる回した。画面の数字を見ていると、不思議と昔の通帳を眺めていた頃を思い出す。給料日になると銀行へ行き、少し増えた残高を見て安心した。子供の学費、家賃、光熱費。数字が減るたびに胃がきゅっと縮んだけれど、今は違う。アストルティアの経験値は減らない。死んでも失わない。転んでもまた稼げる。
「老人ホームの一時金みたいなもんかなぁ」
富子は湯呑みのお茶をすすった。少し冷めている。昔なら、そんなことに腹を立てて入れ直していたかもしれない。でも今は、ぬるいお茶も悪くないと思えるようになった。人生の終盤に入ってから覚えたことは、熱々じゃなくても十分うまいものがあるということだ。
画面の向こうでは、まもの使いの富子が元気いっぱいに笛を吹いている。魔物を呼び、サポート仲間が勝手に敵を倒していく。富子はたまにボタンを押し間違えるが、そんなことは誰も気にしない。むしろ、
「みるくさん、今日も元気に呼んでますね!」
と言われる始末である。
「そうなのよ。プレイヤースキルはないけど、呼ぶのだけは得意なの」
富子はひとりで返事をして、また笑った。若い頃は何でも人並みにできなくてはいけないと思っていた。家事も、仕事も、育児も、人付き合いも。できないことが増えるたびに、自分が削れていくような気がした。でも七十二歳になってみると、できないことだらけでも案外生きていける。
「まもの使いで呼びまくって、サポと狩りして、『俺TUEEE!!』って思ってりゃいいのよ」
誰も聞いていない部屋で、富子は親指を立てた。窓の外では洗濯物が風に揺れている。白いタオル、くたびれたTシャツ、靴下が一足だけ風に踊っていた。
使えない職を量産してどうするの、と自分でも思う。パラディンなんて特訓ゼロだし、占い師もデスマスターも中途半端だ。ガーディアンと竜術士は一三〇で止まっている。隠者にいたっては、どんな技を使うのかさえ曖昧だ。
それでも経験値を見るたび、富子は少し嬉しくなる。
昔、祖母が玉手箱の話をしてくれたことがある。開けたらおじいさんになってしまう箱だと聞いて、子供の頃の富子は怖くてたまらなかった。
でも今なら思う。
玉手箱って、案外悪いものじゃない。
長く生きた証が、ぎっしり詰まっている箱なのだ。
レベル一四〇の戦士も、一二二の隠者も、失敗した日も、笑った日も、全部まとめて入っている。開けるたびに、
「ああ、ここまで来たんだな」
と確認できる。
富子は椅子にもたれ、首の汗をタオルで拭いた。汗疹がかゆい。薬を塗ろうか迷って、面倒になってやめた。夕飯はアジの開きにしようか、それとも冷蔵庫の残り物で済ませようか。そんなことを考えながら、再びゲーム画面を開く。
アストルティアには、水無月の湿った風が吹いている。
現実の部屋にも、同じような風が吹いていた。
富子はマウスを握り直し、にやりと笑う。
「まぁいいか。気楽にやりましょう。どうせ人生もゲームも、レベルだけは勝手に上がっていくんだからさ」
そう言って、今日もまもの使いは笛を吹く。サポート仲間が敵を倒し、経験値が少しずつ増えていく。汗疹全開、プレイヤースキル皆無。それでも富子の冒険は、まだまだ終わりそうになかった。




