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老人  作者: かおるこ
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生きることは食べること

生きることは食べること


 朝から空気が重かった。窓を開けても風はほとんど入ってこない。テレビの天気予報では、東京二十一度、湿度九十三パーセントと言っている。温度だけ聞けば過ごしやすそうなのに、この湿気が曲者だ。富子は居間の扇風機を強にして、首元をぱたぱたあおいだ。


「これだからいやなのよ」


 薄い花柄のTシャツに、紺色の七分丈パンツ。首には白いタオルを巻いている。鏡を見ると、首筋に赤い汗疹がぽつぽつできていた。糖尿病のせいか、最近は体がむずむず痒い。気がつくと掻いてしまって、腕や脚には細いひっかき傷が何本もついている。


 玄関の隅に置いていたごみ袋を持ち上げる。昨夜の玉ねぎの皮やキャベツの芯、豆腐の容器が入っていて、見た目より少し重い。団地の収集場所まで歩くだけなのに、額にじわりと汗がにじんだ。近所のおばあさんが麦わら帽子をかぶって草むしりをしている。


「蒸すねえ」


「朝からお風呂入ったみたいよ」


 二人で笑った。


 部屋へ戻ると、富子はすぐに台所へ立った。冷蔵庫から人参を一本、玉ねぎを二個、じゃがいもを三個、キャベツを半分取り出す。にんにくを二片、生姜を親指ほど。まな板の上に並べると、なんだか今日は頑張れる気がした。


「よし」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 包丁で人参を切る。ごとん、ごとん、とまな板が鳴る。玉ねぎを刻めば目がしみる。生姜の爽やかな香りと、にんにくの強い匂いが混ざって、台所いっぱいに広がった。鍋に油を少しだけ垂らし、にんにくと生姜を炒める。じゅわっと音がして湯気が立ち上った。


 そこへ野菜を次々に放り込む。


 木べらで混ぜる。


 また混ぜる。


 たったそれだけなのに、顎から汗がぽたりと落ちた。


「ええー、もう?」


 富子は思わず笑う。


 Tシャツの胸元に汗の染みが広がる。タオルで顔を拭いても、すぐまた汗が出る。昔は平気だった。真夏に畑を走り回っても平気だったし、祖母の介護をしていた頃は夜中に何度も起きていた。


 でも今は違う。


 鍋の前に立っているだけで暑い。


 首が痒い。


 背中も痒い。


 腕を掻くと、また傷が増える。


「年取ったなあ」


 そう言ってみる。


 でも、どこか楽しそうな声だった。


 鍋の蓋を開ける。


 湯気がふわりと顔を包んだ。


 キャベツがしんなりしている。人参は鮮やかな橙色のまま。じゃがいもはまだ少し固い。富子は味見をして、塩をひとつまみ入れた。


 冷蔵庫を開ける。


 昨日下茹でした小松菜。


 卵が三個。


 麦茶のポット。


 隅には賞味期限ぎりぎりの納豆。


 十分じゃないかと思う。


 富子はにまっと笑った。


 テーブルの上には、読みかけの文庫本と老眼鏡が置いてある。DQ10の攻略メモもある。隠者のスキルを書き写そうとしたらしく、途中から文字がぐちゃぐちゃになっていた。


「何を言ってるのか全然分からないや」


 そう言って笑う。


 天地は楽。


 旅芸人は好き。


 盗賊は酒場用。


 隠者は自動回復があるらしい。


 みんな動画を見て、宝珠だのスキル回しだの話しているけれど、自分にはさっぱり分からない。


 でもいい。


 分からなくてもレベルは上がる。


 人生だってそうだ。


 全部理解して生きている人なんて、たぶんいない。


 富子は木べらで鍋をかき混ぜた。


 窓の外では、団地のベランダに干された洗濯物が湿った風に揺れている。タオルもTシャツも、今日は乾く気がしない。


 それでも。


 朝、ごみを出した。


 野菜を刻んだ。


 鍋をことこと煮ている。


 汗疹ができても。


 痒くても。


 顎から汗がしたたり落ちても。


 私は今日を生きている。


「生きることは食べること」


 富子はそう言って、にまっと笑った。


 鍋から立ち上る湯気が、白くゆっくり天井へ昇っていく。


 生きるというのは、案外こんなものかもしれない。


 人参を切って。


 汗をかいて。


 痒い痒いと文句を言って。


 それでも腹は減る。


 だから食べる。


 食べたら、また明日が来る。


「さあて、何日持つかな」


 鍋を覗き込みながら、富子はもう一度笑った。


 台所には、生姜とにんにくの匂いがまだ残っていた。



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