経験値の通帳と玉手箱
経験値の通帳と玉手箱
みるくは、画面に並んだレベルアップの記録を見て、口の端を少しだけ上げた。2026年6月19日、魔法戦士が139になり、パラディンが138から140になり、バトルマスターも旅芸人も140になった。昨日は僧侶、まもの使い、戦士、魔法使い、武闘家まで上がっていて、数字だけ見れば、どこの最強冒険者かと思うほどだった。けれど、みるく本人は、首の伸びた薄紫のTシャツに、膝の出た黒いジャージをはき、机の端に置いた冷めた味噌汁をちらちら見ながら、少し痛む親指を揉んでいた。
部屋には、梅雨の湿った空気がたまっていた。洗濯物はカーテンレールにかかったままで、タオルの端から柔軟剤と生乾きの匂いが混ざっている。みるくは、まもの使いで敵をどんどん呼び出し、強いサポート仲間たちにまとめてなぎ倒してもらった経験値を、経験値の通帳へためこんでいた。自分で上手に戦ったというより、うまい人たちの後ろで団扇を振っていただけのような気もしたが、画面の中の数字は正直に増えていく。
「いやあ、神アイテムだねえ。年寄りにやさしいわあ」
みるくは麦茶を一口飲んで、ひとりで笑った。経験値の通帳は、ためた経験値を好きな職に受け取らせることができる。魔法戦士になって受け取り、パラディンになって受け取り、旅芸人になって受け取れば、実戦でろくに動かしていない職まで、するすると高いレベルになっていく。昔なら、ひとつの職を上げるだけでも、何日も何日も同じ敵を倒して、肩も目もくたくたになったはずだった。
けれど、便利すぎるものには、少しだけ変な味があった。画面の中の旅芸人はレベル140なのに、みるくは旅芸人で何をすればいいのか、すぐには思い出せない。魔法戦士もパラディンも、数字だけなら立派なのに、強敵の名前を見た瞬間、コントローラーを持つ指が止まりそうだった。まるで浦島太郎が、竜宮城で楽しく遊んでいるうちに、外の時間だけがどんどん進んでしまったみたいだった。
「玉手箱を課金で買ってるみたいなもんだよねえ」
そう言ってから、みるくは机の上の弁当のふたを開けた。昼に買ったアジの開き弁当はすっかり冷えていて、ご飯の端が少し固くなっていた。箸でアジの骨をよけながら、画面の中のムニエカ地方の写真を眺めると、そこには現実の部屋よりずっと広い空と、きれいな景色が広がっていた。ハーミットセンスの称号も取ったし、隠者のレベルも119から122になったのだから、今日のみるくは十分によく遊んだはずだった。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。レベルだけ高い使えないキャラを量産しているのではないかと考えると、冷えた味噌汁の豆腐をすくう手が止まった。若い頃なら、新しい職を覚えるのも、呪文や特技の位置を覚えるのも、もっと早かった気がする。今は、画面の中のキャラクターばかりが若くて強くなり、操作している自分のほうは、座布団から立ち上がる時に「よいしょ」と言ってしまう。
「まあ、いい加減でも、ここまで来たんだからね」
みるくはそう言って、もう一度コントローラーを握った。完璧にできなくても、遊んでいる時間まで誰かに採点されるわけではない。強い敵で全滅したら、また町へ戻ればいいし、分からない職は少しずつ練習すればいい。窓の外では雨が細く降っていて、台所の流しには朝の茶碗が一つ残っていたが、画面の中では、みるくのキャラクターが今日も元気に走り出していた。
「明日は、ちょっとだけ普通に戦ってみようかな」
言ってから、みるくは自分で笑った。たぶん明日も、経験値の通帳を開いて、楽な道を探すに決まっている。それでもいいと、みるくは思った。浦島太郎の玉手箱みたいな便利アイテムを抱えながら、年を取った冒険者は、今日もいい加減に、でも確かに、自分の足でオンラインの世界を歩いていた。




