72歳、みるくはまだ冒険者
72歳、みるくはまだ冒険者
六月の夕方だった。窓の外では雨上がりの紫陽花が濡れていて、前の公園の駐輪場には小学生の自転車が何台も並んでいる。みるくは湯呑みに入れた麦茶を飲みながら、古いパソコンの前でぼんやりしていた。机の上には読みかけの文庫本、目薬、血糖値の記録帳、食べかけの柿の種。キーボードの隙間にはいつ入ったのかわからないパンくずまで挟まっている。
画面には今日の冒険の記録が並んでいた。
旅芸人レベル139。
武闘家140。
魔法使い140。
戦士140。
まもの使い140。
僧侶140。
すごい。
本当なら飛び上がって喜ぶはずだった。
十年以上前、初めてアストルティアへ降り立った頃のみるくなら、スクリーンショットを撮ってブログを書いて、フレンドに自慢していたはずだ。
でも今は、
「ふう」
と息を吐くだけだった。
嬉しくないわけじゃない。
ただ。
体が追いつかない。
椅子に座っているだけで肩が痛い。
長時間画面を見ていると目が霞む。
昔は夜更かしなんて平気だったのに、今は二時間遊ぶと頭がぼうっとする。
みるくは頬杖をついた。
「わたし」
「もうオンラインゲーム楽しめないのかなあ」
誰もいない部屋で呟く。
冷蔵庫のモーター音が小さく唸っている。
洗濯物はまだ畳んでいない。
夕飯の味噌汁は少し冷めている。
具は豆腐と玉ねぎ。
朝作ったものだ。
温め直せばいいのに、
なんとなくそのまま飲んだ。
昔は、
違った。
レベル上げなんて今よりずっと大変だった。
経験値の元気玉も少ない。
アクセサリーも完成しない。
装備は高い。
死ぬほど苦労した。
でも、
楽しかった。
みるくは目を閉じる。
最初の町。
初めてのフレンド。
迷子になった迷宮。
僧侶になった日。
知らない人に、
「ありがとう!」
と言われて、
画面の前で照れていた自分。
あの頃のみるくは、
たしかに元気だった。
でも。
若かったから、
楽しかったのだろうか。
そうじゃない気もする。
ピコン。
チャット音が鳴った。
ウエンディ―だった。
長い付き合いのフレンド。
『みるくー』
『レベル上がった?』
『あがった』
『おめでとー!』
『びえーん』
『なんで泣く』
みるくはキーボードを叩く。
『楽なのに』
『昔より全然楽なのに』
『なんか』
『やる気がでない』
少し間が空いた。
それから、
ウエンディ―が返してきた。
『年取ったんだよ』
『知ってる』
『でも』
『それって悪いこと?』
みるくは止まった。
ウエンディ―は続ける。
『昔は』
『世界全部遊びたかった』
『今は』
『好きな場所だけ歩ければいい』
『そんな感じじゃない?』
みるくは画面を見つめた。
好きな場所。
そういえば最近、
ハウジングを全然していない。
昔は家具を並べるだけで一日終わった。
庭に花を植えて。
ベッドの位置を変えて。
お風呂を作って。
住んでもいない家を、
本気で住みやすくしていた。
でも今は、
家具カタログを見るだけで疲れてしまう。
『健康寿命増やしたい』
みるくは打った。
『それが今の夢』
ウエンディ―はすぐ返した。
『いい夢じゃん』
『ゲームより』
『長生きの方が大事』
『でも』
『長生きしたら』
『またハウジングできる』
みるくは笑った。
なんだそれ。
でも。
そうかもしれない。
ゲームをやめたいわけじゃない。
嫌いになったわけでもない。
ただ、
今は少し、
体力が足りない。
気力が足りない。
だったら、
先にそっちを育てればいい。
レベル140じゃなくて、
健康レベルを。
夕飯を温め直した。
味噌汁。
焼き鮭。
冷奴。
納豆。
薬を飲む。
血糖値の手帳を見る。
窓を開ける。
外から湿った風が入ってきた。
公園のどこかで、
子供が笑っている。
みるくは思う。
72歳。
もう若くない。
ゲームも昔みたいにはできない。
でも。
旅芸人140。
戦士140。
僧侶140。
ここまで来た。
十四年前、
小さな部屋で震えながらログインした自分が見たら、
きっと驚く。
「すごいじゃん」
って、
言ってくれる気がする。
みるくはパソコンを閉じた。
今日はもう遊ばない。
少し散歩して、
お風呂に入って、
早く寝よう。
健康寿命を増やす。
それも、
立派な冒険だ。
明日、
気が向いたら。
ハウジングの庭に、
紫陽花を一輪置いてみよう。
急がなくていい。
みるくはまだ、
冒険者なのだから。




