はじめて僧侶になった!
はじめて僧侶になった!
雨音を聞くと、富子は時々、あの日のことを思い出す。水無月の細い雨が団地の前のアスファルトを黒く濡らし、紫陽花の色を少し濃くしている夕方だった。灰色のスウェットの袖で眼鏡を拭きながら、富子は古いデスクトップパソコンの電源を入れる。テーブルには昼の残りの冷やしうどんと、食べかけの沢庵が置きっぱなしになっていた。ゲームを始めて十二年も経つのに、ログインボタンを見るたび、胸の奥が少しだけそわそわする。
「二〇一四年三月七日、か」
独り言をつぶやくと、富子はマウスを撫でた。あの日も同じように、小さな部屋でパソコンに向かっていた。窓からは春の陽射しが差し込み、洗濯物のタオルが風に揺れていた。小説投稿サイトは何度挑戦しても続かなかった。新しい趣味も、資格の勉強も、家計簿も、日記も、気がつけば途中で止まっていた。部屋の隅には使わなくなった手芸道具や途中まで編んだマフラーが積み上がっている。
「今度こそ続けられるかしら」
そう思いながら、富子――当時はみるくという名前を選んだ――は『ドラゴンクエスト10』の世界に降り立った。
最初に選んだ職業は僧侶だった。攻撃より回復の方が好きだったからだ。誰かの傷を治す。転んだ仲間を起こす。ただそれだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろうと不思議に思った。レベルはなかなか上がらないし、敵に囲まれると慌てて呪文を間違える。白いローブを着た小さなキャラクターが転ぶたび、富子も机を叩いて悔しがった。
「きゃーっ! また死んだ!」
部屋には誰もいないのに、大声を出して笑った。カップ麺の匂いが漂う部屋で、春の日差しを浴びながら、富子は何時間も遊び続けた。気がつけば夕方になり、慌ててご飯を炊く。そんな日々が、少しずつ積み重なっていった。
ゲームの中では、富子は失敗しても怒られなかった。回復呪文を間違えても、「どんまい」と言われた。現実では財布を忘れ、コンビニに行っては引き返し、病院の日を勘違いし、大事な約束の日ほど何かをやらかす。スーパーで買った卵を自転車の前かごに置きっぱなしにしたこともある。帰宅して空っぽのかごを見た時は、しばらく玄関でしゃがみ込んだ。
「どうして私は、こうなんだろうねぇ」
そうつぶやいても、答える人はいない。けれど、夜になるとゲームの仲間がいた。
「みるくさん、今日はどこ行く?」
「迷宮!」
「また?」
「また!」
それだけで笑えた。誰かと遊ぶ約束があるということが、富子には新鮮だった。レベルが一つ上がるたびに嬉しかった。ゲームの中では、失敗しても何度でもやり直せる。現実みたいに、取り返しのつかないことばかりではなかった。
それから十二年。小説投稿サイトはいくつも始めて、いくつも離れた。ブログも、写真も、家計簿も、途中で止まった。机の引き出しには、三日坊主になったノートが何冊も入っている。けれど、オンラインゲームだけは続いている。キャラクターも年を取らないし、みるくという名前もそのままだ。
今夜も富子は、ゆっくりログインする。肩には湿布を貼り、目薬をさして、麦茶を用意してから椅子に座る。三十分のレベル上げが長く感じるようになった。敵を十匹倒しただけで肩を回す。昔なら夜中まで遊べたのに、今は二十二時を過ぎると眠くなる。
「寄る年波には勝てませんわ」
そう言って笑うと、チャット欄に若い仲間が返してくる。
「富子さん、今日も元気ですね」
「元気じゃないわよ。レベル上げが地獄ですもの」
「でも十二年続いてるじゃないですか」
富子は、ふと手を止めた。窓の外では水無月の雨がしっぽりとアスファルトを濡らしている。遠くで電車の音が聞こえ、洗濯物が部屋干しの匂いを漂わせていた。冷めた味噌汁を温め直しながら、富子は少し考える。
財布を忘れて泣きそうになった日もあった。お金のやりくりがうまくいかず、空っぽの財布を握りしめてため息をついた夜もあった。大事な時ほど大ポカして、自分で自分に呆れたことも数え切れない。でも、そんな日を全部通り過ぎて、今日もここにいる。
「今日まで生きてきたのよ。それだけで丸儲け!!」
富子は、少し大きな声で言った。
「明日もログインしますわよ!」
チャット欄に拍手のしぐさが並ぶ。雨はまだ降っている。でも、その雨は夏が近いことを知らせる雨だ。富子は白いローブの小さな僧侶を見つめながら、明日は何をしようか考えていた。




