寄る年波には勝てませんわ
寄る年波には勝てませんわ
ログイン画面の音楽を聞いただけで、もう少し休んでからにしようかと思ってしまう自分に気づいて、富子は苦笑いをした。六月の夕方はまだ明るく、開け放した窓から湿った風が入ってくる。テーブルの上には飲みかけの麦茶と、昼に食べたアジの開きの皿がまだ下げられずに置かれていた。昔なら夕飯の支度を終えてから三時間は遊べたのに、今はゲーム機の電源を入れるだけで肩が重い。それでも毎日のようにログインしてしまうのだから、好きという気持ちは年を取ってもなかなか消えないものだ。
「よし、今日は三十分だけレベル上げしますわ」
誰もいない部屋でそう宣言すると、少しだけ気持ちがしゃんとする。富子は薄い灰色のカーディガンを羽織り直し、マウスを握った。画面の中では愛用の魔法使いが元気よく杖を振っている。経験値の多い狩場に移動して、敵を倒して、また倒して、また同じ場所をぐるぐる回る。十年前なら何時間でも平気だった単純作業が、今日は十分で長く感じる。肩を回し、首を鳴らし、窓の外を見上げる回数ばかり増えていった。
「あと二十分……まだ二十分ありますの?」
時計を見て、思わず声が裏返った。経験値バーはほんの少ししか伸びていない。画面の中の若い仲間たちは、楽しそうに雑談しながら次々と敵を倒していく。富子は敵を一匹倒すたびに、ふう、と息を吐いた。気がつくと右手でマウスを握ったまま、左手で肩を揉んでいる。昔は肩こりなんて知らなかったのに、今ではゲーム前に湿布を貼るのが日課になっていた。
「富子さん、今日もレベル上げですか?」
ギルドチャットに文字が流れる。
「ええ、でももう地獄ですわ」
「三十分で?」
「三十分だからですわよ。若い頃は三時間が準備運動でしたのに」
そう打ち込むと、画面の向こうで何人かが笑っているらしく、「www」が並んだ。富子もつられて笑った。笑うと少し元気が出る。けれど、敵を二匹倒したところで、また時計を見る。まだ五分しか経っていない。
雨が降り始めたのはその頃だった。窓辺に吊るした風鈴が小さく鳴り、ベランダの洗濯物を慌てて取り込む。パジャマ代わりのTシャツや、くたびれたタオルを抱えて戻ると、ゲームの画面ではキャラクターが棒立ちしていた。昔なら雨が降ろうが電話が鳴ろうが集中できたのに、今は少し席を立つと気持ちまで途切れてしまう。
「もう今日は終わりにしようかしら」
そうつぶやいてから、富子は首を振った。今日は三十分と決めたのだ。冷蔵庫から小さなヨーグルトを取り出し、ゆっくり食べる。甘酸っぱい味が口に広がると、少しだけ気持ちが軽くなった。画面に戻ると、ギルドの若い子が小さな花火のアイテムを足元で打ち上げている。
「富子さん、無理しなくていいですよ」
「いやですわ。年寄りの意地がありますもの」
「じゃあ、あと五分だけ一緒に狩りましょう」
「五分なら、なんとか」
その言葉に、富子は思わず姿勢を正した。ひとりだと長い三十分も、誰かと話しながらなら少し短く感じる。敵を倒して、経験値が入って、また次の敵へ向かう。若い頃みたいに夢中にはなれない。それでも、誰かと笑いながら遊ぶ楽しさは、昔とあまり変わっていないのかもしれない。
三十分きっかりでログアウトすると、富子は大きく伸びをした。肩は少し痛いし、目も疲れている。それでも心のどこかが温かかった。テーブルの上の皿を片付け、味噌汁を温め直す。豆腐とわかめだけの簡単な味噌汁だったが、湯気を眺めていると今日もちゃんと遊べたという妙な達成感が湧いてくる。
「寄る年波には勝てませんわ」
独り言のあとで、富子はふふっと笑った。
「でも、負けっぱなしも悔しいですわね。明日は十五分だけ頑張ります」
窓の外では雨が静かに降り続いていた。六畳一間の古い部屋で、七十二歳のゲーマーは明日のログインをもう考えている。昔ほど長く遊べなくなっても、好きなものを好きと言えるうちは、案外まだまだ捨てたものではないのかもしれなかった。




