十五日の炊き込みご飯
十五日の炊き込みご飯
午前二時。
いつもなら少しだけ胸が軽くなる時間だった。
「よし、入ってるかな」
古びたカーディガンを羽織り、薄いグレーのスウェット姿の美代子は、財布だけ持って近所のコンビニへ向かった。六月の夜風は少し湿っていて、街灯の光が濡れたアスファルトを鈍く照らしている。
偶数月の十五日。
年金支給日だ。
贅沢をするわけではない。それでも口座残高を確認すると、今月もなんとか生きていけるという安心感がある。
コンビニの自動ドアが開く。
冷房の冷たい空気が頬を撫でた。
ATMの前に立ち、通帳を入れる。
いつものように暗証番号を押す。
だが画面に表示された文字を見て、美代子は首をかしげた。
「え?」
画面には無情にも、
『この時間はお取り扱いできません』
と表示されていた。
「なんでよ」
思わず小さく声が漏れる。
もう一度やってみる。
同じだった。
「そんなことある?」
隣で雑誌を並べていた店員の青年が気づいて声をかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「年金の日だから下ろそうと思ったんだけどねぇ」
「今日はシステムの関係じゃないですかね」
「そうなのかなあ」
納得できないまま帰宅する。
少し腹立たしかった。
だが家に戻り、暗い台所の電気をつけた瞬間、別の気持ちが湧いてきた。
冷蔵庫の整理をしよう。
そう思ったのだ。
どうせ朝まで待つしかない。
だったら残り物を片付けてしまおう。
冷蔵庫を開ける。
ひんやりした空気が顔に当たる。
「さて、何があるかな」
人参が半分。
ごぼうが一本。
大根が少し。
水煮の筍。
そして冷凍庫には、いつ焼いたのかよく覚えていない魚。
「これ、なんだったっけ」
包みを見ても書いていない。
「鮭じゃないし、鯖でもないし……」
首を傾げる。
ネットで画像検索までしてみた。
しかし同じ魚が見つからない。
「もう魚でいいや」
誰も困らない結論にたどり着く。
朝になり、窓から柔らかな光が差し込んできた。
台所には包丁の音が響く。
トントントン。
人参を刻む。
ごぼうをささがきにする。
大根も小さく切る。
筍を薄く刻む。
切るたびに土の香りや青い匂いが立ち上る。
「捨てるにはもったいないもんね」
米を研ぎ、具材を入れる。
醤油と酒を加える。
炊飯器の蓋を閉めると、美代子は満足そうに息を吐いた。
しばらくして。
ふわり。
炊き上がる匂いが部屋中に広がる。
醤油の香ばしさ。
野菜の甘い香り。
空腹だった胃が反応する。
「うわあ、いい匂い」
思わず笑顔になる。
その間に酢の物を作る。
きゅうりを薄切りにし、塩を振る。
戻したわかめと和える。
酢の酸っぱい香りが鼻をくすぐった。
味噌汁には豆腐とねぎを入れる。
ぐつぐつと小さな泡が立つ。
湯気が眼鏡を曇らせた。
「あらあら」
眼鏡を外して拭きながら笑う。
そして最後に問題の魚。
電子レンジで温める。
脂の香りが立ち上る。
「結局なんの魚かわからないままね」
独り言を言いながら皿に盛る。
昼前。
小さな食卓に料理が並んだ。
五目炊き込みご飯。
わかめときゅうりの酢の物。
豆腐の味噌汁。
名前のわからない焼き魚。
決して豪華ではない。
けれど妙に満たされた光景だった。
いただきます。
炊き込みご飯を口に運ぶ。
人参の甘み。
ごぼうの香り。
筍の歯ごたえ。
噛むたびに旨味が広がる。
「おいしい」
自然に言葉が出た。
味噌汁を飲む。
熱い湯気が顔を包む。
豆腐が舌の上でほどける。
酢の物の酸味が口の中をさっぱりさせた。
「こういうのでいいんだよね」
誰に言うでもなく呟く。
若い頃は給料日になると少し浮かれていた。
新しい服を買ったり。
外食したり。
だが今は違う。
冷蔵庫の残り物を無駄なく使い切れることの方が嬉しい。
窓の外では雀が鳴いている。
風に揺れる洗濯物。
遠くで子供たちの声。
穏やかな昼だった。
食事を終え、美代子はお茶を淹れた。
湯呑みを両手で包む。
温かさがじんわり伝わる。
ふと昨夜のATMを思い出した。
「あれで良かったのかもね」
誰もいない部屋でつぶやく。
もし夜中に下ろせていたら。
今日の炊き込みご飯は作らなかったかもしれない。
冷蔵庫の整理もしなかっただろう。
名前もわからない魚も、ずっと冷凍庫の奥に眠ったままだったはずだ。
「結果よければすべてよし、か」
美代子は小さく笑った。
財布の中身は相変わらず心もとない。
将来の不安だって消えない。
それでも今日の食卓には、確かな満足があった。
炊き込みご飯の香りがまだ部屋に残っている。
それだけで、少し幸せな気持ちになれた。
午後になったらもう一度ATMへ行こう。
その前に残った炊き込みご飯をおにぎりにしておこうかな。
そんなことを考えながら、美代子は湯呑みのお茶をゆっくり飲み干した。
六月の柔らかな陽射しが、静かな台所を優しく照らしていた。




