言葉が届かない朝
言葉が届かない朝
胸の奥がざらつくような不安を、加代子は毎朝抱えていた。
七十二歳になった今でも、その不安だけは消えない。
朝日が団地の窓から差し込み、六畳間の畳を淡く照らしている。昨夜から降っていた雨は止み、湿った土の匂いが網戸越しに流れ込んでいた。
台所では味噌汁の湯気が立ち上っている。
大根と人参、それに油揚げ。
焼いた鯵の香りも漂っていた。
それなのに加代子の心は重かった。
理由は夫の正雄だった。
七十五歳になる夫は数年前から少しずつ変わっていた。
最初は些細なことだった。
近所の人との会話で場違いなことを言う。
順番を待てない。
相手が嫌そうな顔をしていても気づかない。
謝るべき場面で笑う。
笑うべき場面で怒る。
そんなことが少しずつ増えていった。
「お父さん、ご飯ですよ」
加代子が声をかけると、居間から返事が飛んできた。
「今日は魚か」
「そうですよ」
「肉が良かったな」
正雄はそう言いながら席についた。
灰色のカーディガンに茶色のズボン。
少し前まで身だしなみに気を遣っていた人とは思えない格好だった。
加代子は黙って茶碗を差し出した。
二人きりの朝食。
以前は新聞の記事を話題にしたり、孫の話をしたりしていた。
だが今は違う。
何を話しても会話が噛み合わないことが多かった。
その時だった。
玄関のチャイムが鳴った。
「おはようございます」
近所の佐藤夫人だった。
家庭菜園で採れた胡瓜を持ってきてくれたらしい。
加代子が笑顔で受け取ろうとすると、正雄が後ろから現れた。
「また胡瓜か」
佐藤夫人の顔が引きつる。
「ええ、たくさん採れましたので」
「そんなに要らないんだけどな」
空気が凍った。
加代子は慌てた。
「ありがとうございます。とても助かります」
佐藤夫人は曖昧に笑って帰っていった。
ドアが閉まった後、加代子は深く息を吐いた。
「どうしてあんな言い方をするの」
「本当のことだろ」
「そういう問題じゃないの」
「意味が分からん」
正雄は本当に分からない顔をしていた。
悪意がない。
だから余計につらい。
加代子は胸が締め付けられた。
昼過ぎ。
二人は商店街へ買い物に出た。
湿ったアスファルトの匂い。
八百屋の威勢のいい声。
焼き鳥屋から漂う香ばしい煙。
いつもの商店街だった。
しかし加代子は落ち着かなかった。
正雄が何を言うか分からないからだ。
案の定だった。
レジの列に並んでいる時、正雄は突然前へ割り込んだ。
「お父さん!」
加代子が慌てて腕を引く。
後ろにいた若い母親が困惑した顔をしている。
「並んでいるんですよ」
加代子が小声で言う。
「空いてるんだからいいだろ」
「良くないの」
「なんでだ」
正雄は不機嫌そうに眉をひそめた。
その顔は子供のようだった。
加代子は謝りながら列の後ろへ戻った。
買い物を終える頃には疲れ切っていた。
帰宅すると、どっと力が抜けた。
夕方。
息子の和也がやって来た。
五十歳になる会社員だ。
紺色のワイシャツの袖をまくり、少し疲れた顔をしている。
「母さん、大丈夫か」
その一言で加代子の目が潤んだ。
「大丈夫じゃないかもしれない」
和也は黙って話を聞いた。
近所とのトラブル。
買い物での出来事。
毎日の不安。
全部聞き終えると静かに言った。
「病院に相談しよう」
正雄は不満そうだった。
「俺は病気じゃない」
「そうかもしれない」
和也は穏やかに言う。
「でも困っているのは事実だろ」
正雄は黙った。
加代子は夫の横顔を見た。
昔は頼もしい人だった。
工場で働き、家族を支え、休日には子供たちを公園へ連れて行った。
優しい父親だった。
それが今では、どう接していいのか分からない。
憎いわけではない。
嫌いになったわけでもない。
むしろ逆だった。
大切だから苦しい。
助けたいから苦しい。
夜になった。
夕食は肉じゃがだった。
じゃがいもがほくほくと湯気を立てている。
甘辛い醤油の香りが部屋に広がった。
食卓を囲みながら、正雄がぽつりと言った。
「みんな俺を変な奴みたいに見るな」
加代子は箸を止めた。
正雄の声は小さかった。
「俺だって分からないんだ」
初めて聞く本音だった。
「何がですか」
和也が尋ねる。
正雄は俯いた。
「昔みたいにできない」
その言葉に加代子の胸が痛んだ。
正雄も苦しんでいたのだ。
周囲だけではない。
本人もまた、自分自身の変化に戸惑っていた。
加代子はそっと夫の手に触れた。
少しごつごつした手だった。
長年働いてきた証のような手だった。
「一緒に考えましょう」
正雄は何も言わなかった。
だが手を引かなかった。
窓の外では秋の虫が鳴いている。
夜風がカーテンを揺らした。
老いることは悲しいことばかりではない。
けれど簡単なことでもない。
誰かを支えることも。
支えられることを受け入れることも。
どちらも難しい。
それでも家族は同じ食卓を囲む。
温かい味噌汁を飲み。
肉じゃがを分け合い。
悩みながら明日を迎える。
加代子は湯気の向こうにいる夫を見つめた。
まだ終わりではない。
分からないことは多い。
不安も消えない。
それでも明日、もう一度話してみよう。
そう思えた夜だった。




