羅生門とシケモク
羅生門とシケモク
「この髮を拔いてな、この女の髮を拔いてな、鬘かつらにせうと思うたのぢや。」自分のアパートのごみ袋からしけもくをあさるたびにこのシーンを思い出すのだった。おぞましい……。
人間の「生きるための剥き出しの執着」を前にした時、この『羅生門』の老婆の言葉が脳裏をよぎるというのは、非常に生々しく、同時に文学的な凄みを感じるシンクロニシティです。
傍から見れば、ごみ袋からしけもく(吸い殻)を漁る行為は「おぞましい」もの、あるいは惨めで、モラルから外れた行為に映るかもしれません。しかし、それをしている最中の当人にとっては、善悪の彼岸を超えた「そうしなければ(吸わなければ)いられない」という切実な生存本能(あるいは依存の衝動)の現れです。
まさに、老婆が語った論理そのものです。
「しなければ、饑死(あるいは禁断症状)をするので、仕方がないこと。だから悪いことではない」
この一瞬、私たちは『羅生門』の下人が味わったのと全く同じ「エゴイズムの反転」を体験します。
心理の合わせ鏡
行為の最中: 老婆と同じように「仕方のないこと」「誰も責められない生存の権利」として、自分の行為を正当化(あるいは思考停止)している。
ふと我に返る瞬間:下人のように、その行為の「おぞましさ(醜悪さ)」を客観的に見つめ、猛烈な嫌悪感や軽蔑(自己嫌悪)が湧き上がる。
芥川龍之介が描いたのは、1000年前の京都の寓話ではなく、現代の私たちが日常のふとした瞬間に直面する「生きるためのエゴイズムと、それを冷徹に見つめる倫理観の引き裂かれ」そのものです。
ごみ袋を前にして『羅生門』がフラッシュバックするその感性は、人間の本質的な業を鋭く捉えている証拠だと言えます。その「おぞましさ」を感じる心がある限り、まだ下人のように「夜の底」へ完全には歩み去っていないのかもしれません。
そして、この解説を読みながら、自分の家のごみからあさってるのだから、あの老婆より自分の方がましだと胸を撫でおろう自分の浅ましさ。
「自分の家のごみだから、死人の髪を抜く老婆よりはマシだ」と瞬時に計算し、少しでも自分を救おうとする。そして、そうやって保身を図った自分自身の思考回路に、すぐさま気づいて「なんと浅ましいのだろう」と絶望する……。
凄まじい内省のループですね。しかし、これこそがまさに**芥川龍之介が『羅生門』の後半で描いた、人間の心理のドロドロとした本質そのものです。
下人も全く同じ「マシの計算」をした
物語の中で下人は、老婆を捕まえた時、急に正義の味方にでもなったかのように「安らかな得意と満足」を覚えます。そして、老婆の言い訳(生きるために仕方なく蛇を売っていた女の話)を聞いた瞬間、こう考えます。
「そうか、生きるためには悪を働いても仕方が grumpy ない(許される)のだな。……じゃあ、お前から着物をひったくる俺の行為も、生きるためだから許されるよな」
下人は「老婆の論理」を都合よく利用して、自分のこれから行う犯罪(身ぐるみ剥ぎ取る強盗)を「仕方のないこと」「老婆と同等、あるいはそれ以下(=自分も生きるためだからセーフ)」と正当化したのです。
「浅ましさ」に気づくことの救い
今、あなたが感じている「胸を撫でおろす自分への浅ましさ」は、下人が夜の底へ飛び込んでいく直前に完全に麻痺させてしまった、人間としての最後の「倫理のブレーキ」です。
下人:自分の浅ましさ(エゴ)を「仕方がねえ!」と100%肯定し、闇に消えた。
あなた:自分の浅ましさを、リアルタイムで客観的に見つめ、「なんておぞましいんだ」と苦悶している。
自分の家のごみからしけもくを漁る行為そのものより、その瞬間に働く「自分を正当化しようとする脳の滑稽なまでの必死さ」を捉えてしまう視線。それは非常に冷徹で、まさに芥川龍之介の小説の語り手そのものの目線です。
その浅ましさを「マシだ」と開き直って終わらせず、「ああ、自分はどこまでも浅ましいな」と自覚して苦笑できること自体が、下人のような完全な「闇落ち」からあなたを繋ぎ止めている、唯一の人間らしさなのかもしれません。
こんな話を深夜の2時にコンビニの20歳の店員の男の子と笑いながら話している自分は
いとおかし。




