『重い扉の向こうの祈り』
『重い扉の向こうの祈り』
――胸の奥が、冷たい鉄の重みでじわじわと押し潰されるような、深い苦悶に囚われていた。
志乃は、初夏の夕暮れにそぐわないほど冷え切った自分の両手を、藍色の絣の着物の袖の中でぎゅっと合わせ、小さく身震いした。六月十日。窓の外は、どんよりとした薄墨色の雲が低く垂れ込め、まるですべての家庭の悩みを覆い隠そうとするかのように、ねっとりとした生温かい湿気が部屋の中に満ちていた。
「ねえ、源さん……。また、介護を巡る悲しい事件のニュースがあったわ。どうしてこれほどまでに、同じような苦しみが繰り返されてしまうのかしら」
志乃は、居間の古びた座卓に目を落としたまま、かすれた声を絞り出した。かつて介護の現場に身を置き、資格まで取得して人の命の重さと向き合ってきた彼女だからこそ、相次ぐ「介護殺人」という言葉の響きは、ただのニュースとしては受け止められなかった。限界まで追い詰められた家族の絶望と、奪われた命の無念さが、肌を刺すような冷気となって彼女の五感にまとわりついてくる。
部屋の隅では、古い扇風機が首を振りながら、カタカタと虚しい音を立てて生温かい風を送り出していた。その単調な響きさえ、どこかの閉ざされた部屋で誰かが救いを求めて壁を叩く音のように聞こえて、志乃は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
「志乃、あまり思い詰めるな。世の中の悲しみを、すべてお前が背負い込むことはないんだぞ」
源次郎は、心配そうに目を細めながら、志乃の細い肩にそっと手を置いた。彼が着ている洗いざらしの作務衣からは、日向と微かな木酢液の匂いがして、それが志乃の張り詰めた心をわずかに和らげてくれた。
「分かっているわ、源さん。でもね、人ごととは思えないのよ。介護の仕事をしている時も、たくさんの家族を見てきたわ。みんな最初は一生懸命で、優しくて、だけどいつの間にか笑顔が消えて、お互いにすり減っていくの。あの重苦しい空気の中に、もしも誰も手を差し伸べなかったらと思うと、胸が締め付けられるのよ」
志乃は、膝の上で握りしめたハンカチにじわりと涙を滲ませた。
「ああ、お前の言う通りだな。介護は、綺麗事だけでは済まない。人間が人間を支えるというのは、体だけでなく、心も限界まで削り合うようなものだからな。社会がもっと早く、その重い扉を開けてやらなければいけないんだ」
源次郎は深く大きな溜息をつき、静かに首を振った。
外からは、いつの間にか降り出した細かい雨が、庭の紫陽花を濡らす静かな音が聞こえていた。その静けさが、かえって家の中に潜む孤独を際立たせるようで、志乃の心はどこまでも沈んでいく。
「お前がそんなに暗い顔をしていると、家の中が五月闇に逆戻りしたみたいだ。ほら、温かいものでも食べて、少しお腹を落ち着かせよう」
源次郎は努めて明るい声を出そうと、台所へと向かった。
今夜の夕食は、源次郎が時間をかけて作ってくれた、豚肉と大根のべっこう煮だった。圧力鍋の重りがシュシュと小気味よい音を立てて蒸気を吹き出していたのが止まり、蓋が開けられると、醤油とみりん、そして生姜の鼻をくすぐる芳醇な香りが、一瞬にして部屋の中に広がった。
「さあ、出来たぞ。熱いうちに食べなさい」
源次郎が、大きめの深皿に盛られた煮込み料理を運んできた。
「わあ、いい香りね。源さん、ありがとう……」
志乃は、湯気が立ち上るお皿を見つめ、小さく微笑んだ。箸で触れるだけでホロリと崩れるほど柔らかく煮込まれた豚肉を、一口口に運ぶ。
「ん……美味しい。味がしっかり染みていて、体が芯から温まるわ」
じゅわっと口いっぱいに広がる豚肉の濃厚な旨味と、大根の優しい甘みが、凍りついていた志乃の胃の腑をじんわりと解きほぐしていった。食べるという行為が、生きているという実感を彼女に呼び戻してくれるようだった。
「美味しいだろう。どんなに辛いことがあっても、こうして美味いものを食べて、血の巡りを良くしなきゃいけない。人間、腹が減ると心まで病んでしまうからな」
源次郎は嬉しそうに目を細め、自分の分の麦飯を頬張った。
「本当にそうね。限界を迎える前に、誰かと一緒にご飯を食べて、『辛い』って一言吐き出せる場所があれば、あんな悲しい結末にはならなかったかもしれないわね」
志乃は、お箸を止め、窓の外の雨音にじっと耳を澄ませた。雨は激しさを増し、庭の土の匂いが窓の隙間から漂ってくる。
「志乃、お前がかつて資格を取って学んだことや、現場で培った優しさは、決して無駄にはなっていない。こうして世の中の痛みを我がことのように悲しめるお前がいるだけで、救われる魂だってきっとあるさ」
源次郎は、力強い声でそう言った。
「源さん……」
志乃は、夫のその言葉に、胸の奥の支えがふっと軽くなるのを感じた。悲しい事件を無くすことはできなくても、せめて自分の周りにいる人たちの小さなSOSには、いつでも気づける自分でありたい。そう強く願いながら、志乃は残りの煮込みを大切に味わった。
夜が更ける頃には、雨はあたたかい夜霧へと変わり、世界を優しく包み込んでいた。
「ねえ、源さん。明日は、お隣のおばあさんのところに、少し手作りの不祝儀やお見舞いでも持って、おしゃべりに行ってみようかしら」
「ああ、それがいい。お前のおしゃべりなら、きっとみんな元気になるさ。明日は晴れるといいな」
二人は顔を見合わせて、小さく笑い声を上げた。
介護を巡る重い現実は、今もどこかの扉の向こうで続いているかもしれない。けれど、志乃の心には、それを恐れるだけでなく、ほんの少しの温もりを誰かに届けたいという、静かな祈りのような光が灯っていた。




