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老人  作者: かおるこ
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アボカドを半分だけ

アボカドを半分だけ


 鏡を見るたびに、和枝は少しだけ肩を落としていた。


 七十二歳になった今、若返りたいとは思わない。


 だが、せめて元気でいたかった。


 朝起きて体が軽いこと。


 階段を上っても息が切れないこと。


 好きなものを美味しく食べられること。


 それだけで十分だった。


 それなのに最近は違う。


 足がむくむ。


 便秘がちになる。


 疲れが抜けない。


 顔色もどこか冴えない気がした。


 鏡の前でため息をつく。


「年だから仕方ないのかしらねえ」


 そう呟いてみても、納得できなかった。


 春の終わりだった。


 和枝はいつものスーパーへ買い物に来ていた。


 薄い若草色のブラウスにベージュのカーディガン。


 紺色のズボンを履いている。


 店内には焼き立てパンの香りが漂っていた。


 魚売り場からは氷の冷たい匂いがする。


 野菜売り場を歩いていると、見慣れない札が目に入った。


『世界一栄養価の高い果物』


 和枝は立ち止まる。


「果物?」


 そこに積まれていたのはアボカドだった。


 深い緑色をしたごつごつした実。


 正直、あまり買ったことがない。


 隣で試食販売をしていた若い店員が笑顔で言った。


「アボカドですよ」


「これ果物なの?」


「そうなんです」


 和枝は驚いた。


「野菜だと思ってた」


「そう言う方多いですよ」


 店員は楽しそうに続ける。


「ビタミンEとか食物繊維とか、体にいい成分がたくさん入っているんです」


「へえ」


「美容にも人気ですよ」


 美容。


 その言葉に少しだけ心が動いた。


 和枝はアボカドを一つ買った。


 家に帰る。


 台所の窓から初夏の風が入っていた。


 庭ではミントが揺れている。


 夕飯はサラダにしてみた。


 レタス。


 トマト。


 ゆで卵。


 そしてアボカド。


 包丁を入れると、柔らかな黄緑色の果肉が現れた。


「きれいねえ」


 思わず声が出る。


 食卓に並べる。


 一口食べてみた。


 ねっとりしている。


 まるでバターみたいだった。


「不思議な味」


 嫌いではない。


 むしろ好きかもしれない。


 その日から和枝は時々アボカドを買うようになった。


 ある日、娘の美穂が遊びに来た。


 三十八歳。


 会社員で忙しい。


「お母さん、何食べてるの?」


「アボカド」


 美穂は笑った。


「意外」


「そんなに?」


「もっと煮物とか好きそう」


「失礼ね」


 二人で笑う。


 昼食はアボカドとマグロの丼だった。


 醤油の香り。


 刻み海苔。


 わさび。


 炊き立てご飯。


 窓から差し込む陽射しが食卓を照らしている。


「美味しい」


 美穂が目を丸くした。


「でしょ?」


 和枝は少し得意になった。


 それから数か月が過ぎた。


 ある日、ふと気づく。


 最近お腹の調子がいい。


 以前ほど便秘に悩まされない。


 足のむくみも少し楽になった気がする。


 もちろんアボカドだけの力ではないだろう。


 散歩も続けている。


 野菜も食べるようになった。


 だが何かが変わっていた。


 秋の朝だった。


 和枝は近所の公園を歩いていた。


 金木犀の香りが漂う。


 空は高い。


 雲がゆっくり流れている。


 ベンチに座る。


 すると顔見知りの女性が声を掛けてきた。


「最近元気そうね」


 和枝は笑った。


「そう見える?」


「見えるわよ」


 その言葉が嬉しかった。


 自分では分からなかった。


 でも誰かにそう言われると、少し自信になる。


 帰宅すると夫の遺影が目に入る。


 亡くなって八年になる。


 和枝は写真に向かって話しかけた。


「聞いて」


 もちろん返事はない。


 それでも続ける。


「最近ね、ちょっと元気なの」


 写真の中の夫は穏やかに笑っていた。


「お父さんがいたら絶対言うわよね」


 和枝は夫の口調を真似する。


「そんな高いもの買うな」


 思わず自分で笑ってしまった。


 夕方になる。


 今日の夕飯は鮭のムニエルだった。


 付け合わせはアボカドとトマトのサラダ。


 オリーブオイルを少しかける。


 レモンを絞る。


 爽やかな香りが広がった。


 食卓に座る。


 一人の夕飯だった。


 若い頃は寂しかった。


 夫を亡くした直後は泣いた。


 けれど今は違う。


 一人でも食事を楽しめる。


 季節を味わえる。


 それは幸せなことだった。


 食後。


 温かい緑茶を淹れる。


 湯気が立ち上る。


 窓の外では虫が鳴いていた。


 和枝はアボカドを半分だけ残して冷蔵庫へしまう。


「また明日ね」


 誰に言うでもなく呟く。


 その時ふと思った。


 若返りたかったわけではない。


 綺麗になりたかったわけでもない。


 本当に欲しかったのは、明日を楽しみにできる体だった。


 散歩へ行ける足。


 美味しいと感じる舌。


 笑える心。


 そのために食べるのなら悪くない。


 和枝はほうじ茶を飲みながら窓の外を眺めた。


 夜風がカーテンを揺らす。


 遠くの家々には明かりが灯っていた。


 明日の朝は、残り半分のアボカドをトーストにのせよう。


 そんな小さな予定を考える。


 それだけで少し楽しい。


 年を取ると大きな夢は減る。


 けれど、小さな楽しみは増やせるのかもしれない。


 和枝は静かに微笑んだ。


 そして冷蔵庫の中で待っている半分のアボカドを思い浮かべながら、穏やかな秋の夜を過ごすのだった。



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― 新着の感想 ―
「明日を楽しめる体」の言葉に、文字を読む手が止まりました。 そうなんですよ。痛いところとか気になるところがあってもいい。あって当たり前。でも、「明日を楽しめる体」 この言葉を繰り返しつぶやいています。…
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