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老人  作者: かおるこ
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鍵は自分で持っていたい

鍵は自分で持っていたい


 引っ越しの日が近づくほど、富子は胸の奥がざわざわしていた。


 嬉しいのか、不安なのか、自分でもよく分からない。


 七十九歳になった今まで、同じ家で四十五年暮らしてきた。


 夫と子どもたちと過ごした家だった。


 だが夫は十年前に亡くなった。


 子どもたちは独立した。


 今は一人だった。


 朝起きても誰もいない。


 夕飯を作っても一人。


 転んだ時に助けを呼ぶ相手もいない。


 それが寂しかった。


 けれど同時に、誰にも気を遣わなくて済む気楽さもあった。


 だから娘から


「お母さん、サービス付き高齢者向け住宅を見学してみない?」


と言われた時も、すぐには返事ができなかった。


「施設でしょ?」


 富子は顔をしかめた。


 娘の由美は苦笑する。


「違うよ。老人ホームじゃないの」


「同じようなものでしょ」


「全然違うって」


 そう言われても、富子にはよく分からなかった。


 老人ホーム。


 施設。


 自由がなくなる場所。


 そんな印象しかなかった。


 六月のある日。


 由美に連れられて見学へ行った。


 建物は新しく、クリーム色の外壁が陽射しを受けて明るく見える。


 玄関には季節の花が飾られていた。


 ラベンダーの香りがほのかに漂う。


 中へ入ると木の匂いがした。


 廊下は広い。


 段差もない。


 車椅子でも通りやすそうだった。


 職員の女性が笑顔で案内する。


「こちらがお部屋です」


 扉を開ける。


 富子は思わず足を止めた。


「まあ」


 思ったより広かった。


 白い壁。


 大きな窓。


 小さなキッチン。


 トイレと洗面所。


 明るい部屋だった。


「ここで一人暮らしするんですか?」


「はい」


 職員はうなずく。


「ご自身の家と同じですよ」


「でも施設なんでしょう?」


「賃貸住宅です」


 富子は首を傾げた。


「賃貸住宅?」


「はい。外出も自由ですし、ご家族を呼ぶこともできます」


 由美が横から言った。


「お母さんのアパートと同じだよ」


「そうなの?」


 少し拍子抜けした。


 もっと厳しい場所を想像していた。


 職員は続ける。


「毎日の安否確認があります」


「安否確認?」


「朝お会いして体調を確認するんです」


 富子は黙った。


 その言葉に少し安心した自分がいた。


 去年の冬。


 風邪で寝込んだ時があった。


 三日間ほとんど誰とも話さなかった。


 あの時の心細さを思い出す。


 夜になると本当に怖かった。


 もしこのまま起きられなくなったらどうしよう。


 誰も気付かない。


 そんな不安があった。


 見学を終えた帰り道。


 由美が聞いた。


「どうだった?」


 富子はしばらく考えた。


「思ったより悪くなかった」


「でしょ?」


「でもねえ」


 由美は笑う。


「何?」


「家が好きなのよ」


 それが本音だった。


 古い家だった。


 冬は寒い。


 夏は暑い。


 それでも夫との思い出が詰まっている。


 翌月。


 富子は引っ越しを決めた。


 決めた夜は泣いた。


 誰もいない居間で一人泣いた。


 古びた箪笥。


 色褪せたカーテン。


 夫が使っていた湯呑み。


 全部が思い出だった。


 置いていくような気がした。


 だが娘は言った。


「思い出は家じゃなくて、お母さんの中にあるんだよ」


 その言葉が胸に残った。


 引っ越しの日。


 富子は淡い水色のブラウスに灰色のスカートを着ていた。


 荷物は思ったより少ない。


 新しい部屋へ入る。


 窓際に夫の写真を置いた。


 お気に入りの花柄の湯呑みも並べる。


 小さなテレビ。


 座椅子。


 古い時計。


 それだけで少し家らしくなった。


 夕方。


 職員の女性が訪ねてきた。


「何か困ったことはありませんか?」


「今のところは」


「夕食は食堂でも食べられますよ」


「そうなんですか」


「もちろんお部屋でも大丈夫です」


 富子は少し考えた。


 一人で食べるのは慣れている。


 だが今日は食堂へ行ってみようと思った。


 食堂は明るかった。


 窓から夕日が差し込んでいる。


 夕食は鯖の味噌煮だった。


 ほうれん草のお浸し。


 味噌汁。


 白いご飯。


 湯気と出汁の香りが広がっている。


 向かいの席には八十代くらいの女性が座っていた。


「初めて?」


 話しかけられる。


「ええ」


「私は三年目よ」


 女性は笑った。


「ここ、案外気楽よ」


「そうなんですか」


「誰も干渉しないし」


 富子は少し安心した。


 食事を終えた頃には自然と会話していた。


 名前。


 出身地。


 好きな食べ物。


 そんなたわいない話だった。


 夜。


 自室へ戻る。


 窓の外には街灯の明かりが見える。


 富子は夫の写真を見つめた。


「お父さん」


 小さく話しかける。


「私ね、まだ施設は嫌だったの」


 写真は何も答えない。


 けれど昔と変わらない笑顔だった。


「でもね」


 富子は少し笑った。


「ここは施設じゃなかった」


 自由に外出できる。


 好きな時間に寝られる。


 好きな服を着られる。


 好きなテレビも見られる。


 それでいて誰かが見守ってくれる。


 その安心感は思った以上に大きかった。


 翌朝。


 職員が声を掛けてくれた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 たったそれだけのやり取りだった。


 だが富子は少し嬉しかった。


 誰かが自分の存在を知っている。


 それだけで心が軽くなる。


 窓の外では朝日が昇っていた。


 新しい一日の始まりだった。


 富子は温かいお茶を飲みながら思う。


 年を取ると失うものばかりに目が向く。


 家。


 体力。


 友人。


 家族との時間。


 でも新しく手に入るものもあるのかもしれない。


 安心。


 つながり。


 そして自由。


 富子は夫の写真に向かって微笑んだ。


「大丈夫」


 そして窓の鍵を自分の手で開ける。


 その瞬間、爽やかな朝風が部屋へ流れ込んできた。


 富子はその風を胸いっぱいに吸い込みながら思った。


 これからも私は、自分の人生の鍵を自分で持っていたいのだと。



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