まだ私が倒れるわけにはいかない
まだ私が倒れるわけにはいかない
朝、目が覚めた瞬間から、佐竹春子は胸の奥に小さな緊張を抱えていた。
七十七歳になった今も、それは毎日変わらない。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めるのは、年齢のせいだけではなかった。
自分が起きなければならない理由が、この家には二人もいるからだ。
布団の中で耳を澄ます。
隣の部屋からは規則正しい機械音が聞こえる。
シュー、コー。
シュー、コー。
酸素濃縮器の音だった。
八十二歳になる夫の正一は肺の病気を患い、在宅酸素療法を受けている。
そしてもう一つ。
廊下の奥の部屋からは、かすかな寝息が聞こえる。
九十八歳の母、フミだった。
春子はそっと布団から起き上がった。
花柄のネルのパジャマの上からカーディガンを羽織る。
窓を開けると、ひんやりした朝の空気が流れ込んできた。
六月の朝だった。
遠くでカラスが鳴いている。
庭の紫陽花にはまだ朝露が残っていた。
春子は小さく息を吐く。
「今日も始まるねえ」
誰に言うでもなく呟いた。
台所へ向かう。
冷蔵庫から卵を取り出し、味噌汁を温める。
出汁の香りが立ち上る。
豆腐とわかめが揺れている。
鮭を焼くと、香ばしい匂いが家の中に広がった。
しばらくして夫が起きてきた。
鼻には酸素チューブがついている。
歩く速度も昔より遅い。
「おはよう」
「おはよう。調子はどう?」
「まあまあだな」
そう言って笑う顔には疲れが見えた。
春子は無理に明るく答える。
「今日は天気がいいからね」
その時、奥の部屋から声がした。
「春子ー」
母だった。
「はーい」
春子は急いで向かう。
母は布団の中で不安そうな顔をしていた。
「ここはどこだい」
春子の胸が少しだけ痛む。
最近こういう日が増えた。
「お母さんの家だよ」
「そうかい」
母は安心したように笑った。
九十八歳。
百歳まであと二年。
昔は厳しくて怖かった母だった。
今は子どものような表情を見せる。
春子は母の髪をそっと撫でた。
「朝ご飯にしようね」
食卓には三人が並んだ。
焼き鮭。
味噌汁。
ほうれん草のおひたし。
炊き立てのご飯。
窓から朝日が差し込んでいる。
だが春子は、自分の食事をゆっくり味わう余裕がなかった。
母の箸を気にする。
夫の呼吸を気にする。
味噌汁が冷めても気にならない。
食べることより見守ることの方が大事だった。
昼前になると訪問介護の仕事へ向かった。
薄いグレーのポロシャツに紺色のズボン。
事業所の名札を胸につける。
自転車をこぎながら春子は苦笑した。
七十七歳。
介護する側であり、介護されてもおかしくない年齢だ。
それでも仕事を続けている。
生活のためもある。
だがそれだけではない。
誰かの役に立っている時間だけは、自分の老いを忘れられるからだった。
利用者の家を訪れる。
八十九歳の女性だった。
「佐竹さん、来てくれたのね」
「こんにちは」
「今日はね、少し寂しくて」
春子はその言葉にうなずいた。
「そういう日もありますよ」
本当によく分かる。
寂しさは年齢とともに消えるどころか増えていく。
友人は減る。
体は弱る。
できないことが増える。
だから人は誰かの声を求める。
夕方。
仕事を終えて帰宅する。
家の玄関を開ける瞬間が、実は一番怖かった。
今日は何も起きていないだろうか。
夫は倒れていないだろうか。
母は転んでいないだろうか。
いつも少しだけ息を止める。
そして二人の顔を見ると安心する。
「ただいま」
「おかえり」
夫の返事が聞こえる。
母も居間でテレビを見ていた。
それだけでほっとする。
夕食は肉じゃがだった。
じゃがいも。
人参。
玉ねぎ。
牛肉。
甘辛い煮汁の香りが立ち上る。
夫は美味しそうに食べた。
「春子の肉じゃがはうまいな」
「そう?」
「昔から変わらない」
その言葉に少し照れる。
母も笑った。
「この子は昔から料理だけは上手だった」
「だけは余計だよ」
三人で笑った。
その時間は短かったが幸せだった。
食後。
母は早めに眠った。
夫は酸素チューブを整えながらテレビを見ている。
春子は一人で台所の片づけをしていた。
流し台の前に立ったまま、ふと手を止める。
疲れていた。
腰が痛い。
肩も重い。
本当は自分だって病院へ行きたい。
膝も悪い。
目もかすむ。
忘れっぽくなった。
それでも後回しにしている。
自分より先に守るべき人がいるからだ。
窓の外では雨が降り始めていた。
静かな雨音だった。
春子は濡れたガラスを見つめる。
ふと昔を思い出した。
幼い頃。
熱を出した自分の額に、母が冷たい手を当ててくれたこと。
若かった夫が重い荷物を軽々と持ってくれたこと。
あの頃は守られる側だった。
今は違う。
今度は自分が守る番だ。
春子は少し笑った。
「参ったねえ」
疲れている。
正直しんどい。
泣きたい日だってある。
けれど。
居間から聞こえる夫の咳。
奥の部屋から聞こえる母の寝息。
その音が消えてしまったら、きっと今よりもっと寂しい。
だから春子は立ち上がる。
湯を沸かし、自分のために温かいほうじ茶を入れた。
香ばしい湯気が立ち上る。
一口飲む。
胸の奥まで温かさが広がった。
時計は夜十時を回っていた。
明日もまた忙しいだろう。
母を起こし。
夫を気遣い。
仕事へ向かう。
それでも春子は静かに思った。
大変な毎日だ。
だけど、この人たちがいるから今日も起き上がれる。
百歳に近い母と、酸素ボンベをつけた夫。
二人を見守る七十七歳の自分。
世間から見れば大変な暮らしかもしれない。
それでも確かなことが一つだけあった。
まだ私が倒れるわけにはいかない。
春子は湯呑みを両手で包みながら、静かな夜の中でそう思うのだった。




