『歯医者に百万円』
『歯医者に百万円』
第1話 歯に消えた百万円
鏡を見るたびに、恵子はため息をついていた。
六十八歳になった自分の顔よりも、口元が気になって仕方がない。
左奥歯が抜けたままになっていたのだ。
食事のたびに噛みにくい。
笑うと隙間が見える気がする。
何より、年を取るたびに少しずつ自分が壊れていくような気持ちになった。
朝食のトーストをかじった瞬間もそうだった。
カリッと焼けたパンの香りは好きなのに、うまく噛めない。
口の中でパンが逃げていく。
苺ジャムの甘ささえ少し悲しかった。
夫を亡くして十年。
一人暮らしにも慣れた。
年金は月八万円。
贅沢はできないが、何とか暮らしている。
だが歯だけは違った。
食べることは生きることだ。
そう思っていた。
ある日、恵子は近所の歯科医院へ向かった。
薄いベージュのカーディガンに紺色のスカート。
お気に入りの革のバッグを抱えていた。
待合室には消毒液の匂いが漂っている。
テレビでは昼の情報番組が流れていた。
やがて診察室に呼ばれる。
白衣の医師はレントゲン写真を見ながら言った。
「かなり歯が弱っていますね」
恵子の胸が沈んだ。
「そんなに悪いんですか」
「このままだと将来的に噛めなくなります」
「そうですか……」
医師は説明を続けた。
インプラント。
セラミック。
骨の再生治療。
専門用語が次々に飛び出す。
そして最後に金額を聞いた。
「総額で百万円ほどです」
恵子は言葉を失った。
百万円。
頭の中で数字だけが何度も回る。
百万円あれば何か月暮らせるだろう。
エアコンが壊れても平気だ。
入院しても安心だ。
それが歯に消える。
診察を終えて外へ出ると、夏の日差しが強かった。
アスファルトが白く光っている。
蝉の声が耳に刺さった。
だが恵子の心はどこか遠かった。
その夜。
夕食は鯖の塩焼きだった。
味噌汁には豆腐とわかめ。
炊き立てのご飯から湯気が立つ。
だが味がよく分からない。
夫の遺影が棚の上から見ている。
「ねえ、お父さん」
恵子はぽつりと呟いた。
「百万円だって」
もちろん返事はない。
だが遺影の穏やかな笑顔を見ると少し涙が出た。
「歯に百万円なんて馬鹿よね」
そう言いながらも、本当は違った。
怖かったのだ。
老いていく自分が。
噛めなくなる未来が。
食事の楽しみを失うことが。
翌週、娘の美香が訪ねてきた。
三十八歳。
会社員だ。
孫の陽菜も一緒だった。
「おばあちゃん!」
小学三年生の陽菜が抱きついてくる。
シャンプーの甘い香りがした。
恵子は思わず笑顔になる。
「いらっしゃい」
昼食は冷やし中華だった。
きゅうり。
ハム。
錦糸卵。
紅生姜。
夏らしい彩りが並ぶ。
その食卓で恵子は話した。
「歯医者でね、百万円かかるって言われたの」
美香が目を丸くした。
「ええっ?」
「びっくりするわよね」
「それ本当に必要なの?」
恵子は少し困った。
「分からないの」
美香は腕を組んだ。
「別の病院も行った方がいいよ」
その言葉で恵子ははっとした。
なぜか最初の病院の言葉を信じ込んでいた。
不安だったからだ。
怖かったからだ。
だから冷静になれなかった。
数日後。
恵子は別の歯科医院を訪れた。
今度の医師は穏やかな老人だった。
診察を終えると微笑んだ。
「確かに治療は必要です」
恵子は身構えた。
「はい」
「ですが百万円の治療が唯一の方法ではありません」
「え?」
思わず声が漏れる。
「保険診療を中心に進めればかなり抑えられます」
恵子は何度も聞き返した。
「本当ですか」
「もちろん」
その瞬間、全身から力が抜けた。
診察室で泣きそうになった。
帰り道。
商店街を歩く。
八百屋には桃が並んでいる。
魚屋からは焼き魚の匂い。
風鈴の音が聞こえる。
世界が少し明るく見えた。
だが同時に思った。
百万円が問題だったのではない。
本当に怖かったのは、自分が年を取ったことだったのだ。
できないことが増える。
病院が増える。
お金の心配も増える。
その現実から目をそらしたかった。
秋になった。
治療は少しずつ進んでいた。
帰宅した恵子は、炊き込みご飯を作った。
舞茸。
人参。
油揚げ。
炊飯器を開けると湯気と一緒に出汁の香りが広がる。
一口食べる。
しっかり噛める。
味が分かる。
美味しい。
ただそれだけのことが、こんなにも幸せだった。
食後、窓を開ける。
涼しい秋風が吹き込んできた。
虫の声が聞こえる。
恵子は温かいほうじ茶を飲みながら夫の遺影を見た。
「百万円払わなくて済んだわ」
少し笑う。
「でもね、お父さん」
湯気の向こうで遺影が優しく見えた。
「歯って大事ね」
食べること。
笑うこと。
話すこと。
全部、当たり前ではなかった。
歳を重ねて初めて分かることがある。
失いかけて初めて気づくものがある。
恵子はゆっくりとお茶を飲んだ。
香ばしい香りが胸の奥まで広がる。
そして静かに思った。
百万円に怯えた夏も、きっと無駄ではなかったのだと。




