表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
老人  作者: かおるこ
PR
49/77

『どんなに寂しくても、同居は間違いだった』

『どんなに寂しくても、同居は間違いだった』


娘の家へ引っ越してきた日、和子は胸の奥に小さな安堵を感じていた。


一人で食べる夕食は寂しかった。誰とも話さない日が何日も続くこともあった。だから娘の美咲から


「お母さん、うちに来ない?」


と言われた時は、本当にうれしかったのだ。


七十五歳。年金は月六万円。


築四十年のアパートでの一人暮らしは、決して楽ではなかった。


だから和子は思った。


これで寂しくない。


これで安心して老後を過ごせる。


その考えが、どれほど甘かったのかを知るまでに、それほど長い時間はかからなかった。


## 第1話 優しさの距離


四月の終わりだった。


和子は娘夫婦の家の客間に置かれたベッドの上で目を覚ました。


薄いピンク色の花柄パジャマを着たまま、しばらく天井を見つめる。


窓から差し込む朝日がまぶしかった。


台所からは味噌汁の香りが漂ってくる。


「お母さん、朝ごはんできたよ」


娘の声が聞こえた。


和子は笑顔で返事をする。


「はーい」


食卓には焼き鮭、ほうれん草のおひたし、豆腐の味噌汁、白いご飯が並んでいた。


孫の翔太がランドセルを背負って座っている。


「おばあちゃん、おはよう」


「おはよう、翔太」


和子の胸は温かくなった。


こういう朝を夢見ていた。


家族のいる食卓。


誰かと交わす挨拶。


一人ではない暮らし。


それだけで十分幸せだと思った。


だが違和感は少しずつ積み重なっていった。


「お母さん、洗濯物は私がやるから触らなくていいよ」


「そう?」


「うん。干し方こだわりあるから」


最初は気遣いだと思った。


ところが数日後には、


「お母さん、その鍋の置き場所違うよ」


「え?」


「ここじゃなくてこっち」


さらに翌週には、


「お母さん、冷蔵庫勝手に開けないで」


「え?」


「何が入ってるか分からなくなるから」


和子は少しずつ口数が減った。


自分の家ではない。


その現実が重くのしかかってきた。


夜、布団の中でため息をつく。


娘は優しい。


娘婿も悪い人ではない。


それなのに息苦しい。


その理由が自分でも分からなかった。


六月に入る頃には、和子は昼間ほとんど自室から出なくなっていた。


ある日、居間から娘夫婦の声が聞こえてきた。


障子が少し開いている。


聞くつもりはなかった。


だが聞こえてしまった。


「ねえ、いつまでこの状態続くの?」


娘婿の声だった。


「仕方ないでしょ」


娘が答える。


「分かってるよ。でも正直きつい」


和子の胸がぎゅっと縮んだ。


「お母さん悪い人じゃない。でもずっと家にいると気を遣うんだよ」


静かな声だった。


責める声ではなかった。


だからこそ痛かった。


和子はそっと障子から離れた。


胸の奥が冷たい。


まるで雨の日の洗濯物のように重かった。


その夜の夕食はカレーだった。


湯気の立つ皿から香辛料の香りが漂う。


翔太はおかわりをしていた。


娘も笑っている。


娘婿も普通だった。


誰も和子を嫌っているわけではない。


だが和子は知ってしまった。


ここは自分の居場所ではない。


客なのだ。


いつまでも。


翌朝、和子は近所の公園まで散歩に出た。


淡い水色のカーディガンを羽織り、杖をつきながら歩く。


桜は終わっていたが、新緑が美しかった。


ベンチに腰掛ける。


風が頬を撫でた。


ふと隣に座った同年代の女性が話しかけてきた。


「お一人?」


「いえ、娘の家に同居してるんです」


「そう」


女性は少し笑った。


「私も昔そうだったわ」


和子は思わず聞き返す。


「どうでした?」


女性は遠くを見るような目をした。


「寂しいから同居したの。でもね、寂しさと孤独は違うのよ」


「違う?」


「一人暮らしは孤独だけど自由がある。同居はにぎやかだけど気を遣う」


和子は黙った。


まるで自分の心を見透かされた気がした。


女性は続ける。


「家族だから遠慮しなくていいって言う人いるけど、本当は逆なのよ」


「逆?」


「家族だからこそ遠慮するの」


その言葉は和子の胸に深く沈んだ。


夕方、自宅へ戻ると娘が心配そうに言った。


「お母さん、どこ行ってたの?」


「公園よ」


「心配したじゃない」


その顔を見て、和子は急に申し訳なくなった。


娘も大変なのだ。


仕事。


家事。


子育て。


そして自分。


全部背負わせている。


その夜、和子は意を決した。


食後の食卓で言った。


「ねえ、美咲」


「なに?」


「お母さん、一人暮らしに戻ろうと思うの」


娘の箸が止まった。


「え?」


「心配しなくて大丈夫。市営住宅を申し込んでみる」


「でも寂しいでしょ」


和子は少し笑った。


「寂しいわよ」


本音だった。


涙が出そうになるほど寂しい。


だが続けた。


「でもね、寂しいのと苦しいのは違うの」


娘は何も言わなかった。


和子はゆっくり言葉を続けた。


「お母さん、あなたたちが嫌いになったわけじゃないの」


「うん」


「むしろ大好きよ」


娘の目が潤んだ。


「でもね、お互い笑って会える距離ってあるのよ」


しばらく沈黙が続いた。


やがて娘が小さくうなずく。


「そうかもしれない」


娘婿も静かに頭を下げた。


「すみません」


和子は首を振る。


「謝らなくていいの」


誰も悪くなかった。


ただ距離が近すぎただけだった。


数か月後。


和子は小さな市営住宅へ引っ越した。


古い建物だった。


部屋も狭かった。


それでも窓際には好きなゼラニウムを置いた。


夕食は一人だった。


鮭の塩焼きと味噌汁。


小さな茶碗のご飯。


静かな食卓だった。


それでも不思議と息苦しくなかった。


食後、窓を開ける。


夜風が流れ込んできた。


その時、電話が鳴った。


娘からだった。


「お母さん、今度の日曜日来る?」


「行くわ」


「翔太がおばあちゃんに会いたいって」


和子は笑った。


「じゃあ煮物作って持っていこうかしら」


電話の向こうで娘も笑った。


その声を聞きながら、和子は思った。


どんなに寂しくても、近すぎる距離が幸せとは限らない。


家族だからこそ、離れていた方が優しくなれることもある。


窓の外では初夏の風が木々を揺らしていた。


和子は湯呑みのお茶を一口飲む。


温かな緑茶の香りが鼻をくすぐった。


そして久しぶりに、心の底からほっと息をついたのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ