魂のシャベル
魂のシャベル
六月の終わりだった。
夜の十時を回っている。
ひだまり荘の二階。
坂本栄治はパソコンの前で固まっていた。
画面から流れてくる歌を聴きながら。
麦茶の氷はとっくに溶けている。
扇風機がぶうんと回る。
だが栄治は動かなかった。
歌詞が頭から離れない。
鎖につながれて。
お前は生きるのかい。
夢がやせちまうぜ。
栄治は何度も再生した。
一回。
二回。
三回。
気付けば五回目だった。
「ずるいなあ」
ぽつりと呟く。
若い頃に聴いた時は勢いのある応援歌だと思った。
格好いい。
熱い。
それだけだった。
だが六十七歳になって聴くと違う。
妙に胸へ刺さる。
鎖。
その言葉が残る。
栄治は窓を見る。
暗い夜だった。
遠くのマンションの灯りがぽつぽつ見える。
鎖か。
自分の鎖は何だっただろう。
金。
病気。
年齢。
孤独。
不安。
気付けば色々なものに縛られていた。
いつからだろう。
何かを始める前に、
「もう歳だから」
と言うようになったのは。
その時。
画面からまた歌が流れる。
魂のシャベルで。
金を掘り起こせ。
栄治は笑った。
「金なんか出ねえよ」
だが。
少し考える。
本当にそうだろうか。
六十七歳になって。
ひだまり荘へ来て。
結衣と知り合った。
大河内と笑うようになった。
初めて肉じゃがを作った。
海外の音楽を知った。
ライブへ行きたいと思った。
全部、ここ一年の話だった。
昔の自分なら想像もしなかった。
玄関が鳴った。
こんこん。
「坂本さん」
結衣だった。
「おう」
ドアを開ける。
結衣は缶コーヒーを二本持っていた。
「差し入れです」
「太っ腹だな」
「一本八十八円です」
「現実的だな」
二人で笑う。
結衣は部屋へ入った。
音楽が流れている。
「あ」
結衣が言った。
「HOUND DOGですね」
「知ってるか」
「親が好きです」
栄治は缶コーヒーを開けた。
甘い香りが立つ。
一口飲む。
昔の缶コーヒーみたいな味だった。
「いい歌だな」
「そうですね」
「若い頃と違って聞こえる」
結衣は少し考えた。
「年取ったからですかね」
「だろうな」
栄治は笑った。
若い頃は未来しか見ていなかった。
今は過去も未来も見ている。
だから響く場所が違う。
「なあ」
「はい」
「俺さ」
「うん」
「今年ライブ行けるかな」
結衣は即答した。
「行けます」
「即答か」
「即答です」
「根拠は」
「肉じゃが作れたから」
栄治は吹き出した。
「何だそれ」
「去年の坂本さんは作れなかったでしょ」
「まあ」
「でも作れた」
「うん」
「じゃあ行けます」
めちゃくちゃな理屈だった。
だが不思議と悪くない。
その時。
また玄関が鳴った。
大河内だった。
「またいるのか」
「またいます」
「最近ここが集会所になってるぞ」
「家賃取るか?」
「取らん」
大河内も座る。
音楽を聞く。
しばらく三人とも黙った。
歌だけが流れる。
熱い声。
真っ直ぐな歌詞。
窓の外では夜風が吹いている。
やがて大河内が言った。
「鎖ねえ」
「ん?」
「俺もいっぱいあるな」
珍しく本音だった。
「年取ると増えるな」
「分かる」
栄治も頷く。
金の心配。
病気。
体力。
将来。
若い頃にはなかった鎖だった。
だが。
歌は続く。
男だったら鎖を引きちぎれ。
栄治は思わず笑った。
「無茶言うよな」
「無茶ですね」
結衣も笑う。
「でも嫌いじゃない」
大河内が言った。
栄治も同じだった。
全部の鎖を切ることはできない。
病気も消えない。
年齢も戻らない。
金も急には増えない。
それでも。
一つくらいなら切れるかもしれない。
ライブなんて無理だ。
そう決めつけていた鎖とか。
どうせもう遅い。
そう思っていた鎖とか。
栄治は窓の外を見た。
夜空には星が一つ光っている。
若い頃みたいに大金持ちにはなれない。
スーパースターにもなれない。
だが。
今年の冬にライブへ行く。
それくらいの夢なら持ってもいい。
歌が終わる。
部屋に静寂が戻った。
栄治は缶コーヒーを飲み干した。
そして少し照れながら言った。
「明日から散歩十五分増やす」
結衣が笑う。
大河内も笑う。
「五分増えてるじゃないか」
「魂のシャベルだからな」
栄治は胸を張った。
六十七歳。
貯金も不安。
足腰も不安。
未来も不安。
それでも今夜は少しだけ違った。
遠い昔に聞いたロックンロールが、まだ胸の奥で鳴っていたからだ。
そして坂本栄治は、その音に背中を押されながら、小さな一歩を掘り起こそうとしていた。




