表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
老人  作者: かおるこ
PR
47/77

まだ間に合うんだぜ

まだ間に合うんだぜ


 六月の夜だった。


 ひだまり荘の二階の窓から、生ぬるい風が入ってくる。


 坂本栄治は台所の前に立っていた。


 エプロン姿だった。


 紺色のチェック柄。


 スーパーのポイント交換でもらったやつだ。


 鍋の蓋を開ける。


 ふわりと湯気が立つ。


 醤油。


 砂糖。


 みりん。


 肉の脂。


 甘い匂いが部屋いっぱいに広がった。


「よし」


 栄治は頷いた。


 人生で初めて作った肉じゃがだった。


 皿によそう。


 じゃがいも。


 人参。


 玉ねぎ。


 牛肉。


 彩りは悪くない。


 味噌汁もある。


 冷奴もある。


 麦茶もある。


 今日は少し豪華だった。


 箸を取る。


 まずじゃがいも。


 ぱくり。


 もぐもぐ。


 しばらく噛む。


「んー……」


 微妙な顔になる。


 もう一口。


「うまい」


 さらに一口。


「でも違う」


 また食べる。


「いや、うまい」


 しかし違う。


 栄治は首を傾げた。


「なんだこれ」


 考える。


 思い出す。


 スーパーで買ったじゃがいも。


 メークインだった。


「男爵じゃなかった」


 栄治は天井を見た。


「そうか」


 母親の肉じゃが。


 妻の肉じゃが。


 あのぽくぽくした感じ。


 あれは男爵だったのだ。


 メークインは煮崩れしない。


 形は綺麗だ。


 だが食感が違う。


「なるほどなあ」


 栄治は妙に感心した。


 それでも味は悪くなかった。


 むしろ結構うまい。


 黄金律のおかげだった。


 動画で覚えた比率。


 醤油。


 砂糖。


 酒。


 みりん。


 栄治みたいな素人でも失敗しにくい。


「文明はすごいな」


 一人で頷く。


 その時だった。


 パソコンから通知音が鳴った。


 ぴこん。


 栄治は箸を置く。


 画面を見る。


 ライブ情報だった。


 思わず老眼鏡をかけ直す。


「え?」


 神戸。


 大阪。


 大阪。


 武道館。


 武道館。


 武道館。


 武道館。


 武道館。


 武道館。


 栄治は固まった。


「六回?」


 数え直す。


「六回だ」


 さらに数え直す。


「やっぱり六回だ」


 しばらく黙る。


 それから笑った。


「化け物だ」


 思わず声が漏れた。


「まだやるのか」


 六回。


 日本武道館六回。


 しかも大阪城ホール。


 神戸。


 大きな会場ばかり。


 画面の向こうでは、まだ走り続けている人がいた。


 栄治は麦茶を飲んだ。


 氷がからんと鳴る。


「来年じゃなかった」


 ぽつりと呟く。


「今年じゃん」


 しばらく画面を見つめる。


 胸の奥がざわざわする。


 遠い話だと思っていた。


 来年の話だと思っていた。


 でも違った。


 今年だった。


 今年の十一月。


 今年の十二月。


 まだ半年もある。


 半年。


 長いようで短い。


 短いようで長い。


 その時。


 玄関が鳴った。


 こんこん。


 結衣だった。


「坂本さん」


「おう」


 ドアを開ける。


 結衣は部屋へ入るなり言った。


「いい匂い」


「肉じゃが」


「えっ」


「作った」


 結衣が目を丸くする。


「坂本さんが?」


「失礼だな」


「いや、だって」


 二人で笑う。


 結衣は鍋を見る。


「すごい」


「メークインだった」


「はい」


「男爵じゃなかった」


「そこなんですか」


 栄治は真面目だった。


「重要だ」


 結衣が吹き出す。


 そこへ大河内もやってきた。


「また飯の匂いがする」


「犬か」


「違う」


「同じだ」


 三人で食卓を囲む。


 肉じゃがを食べる。


「うまい」


 結衣が言う。


「そうか?」


「うん」


 大河内も頷く。


「初めてなら十分だ」


 栄治は少し照れた。


 悪い気はしない。


 食後。


 三人で麦茶を飲む。


 パソコンの画面にはライブ日程。


 結衣が見つけた。


「あ」


「ん?」


「これ行けばいいじゃないですか」


 栄治は笑う。


「簡単に言うな」


「でも本当に」


「金もかかる」


「半年あります」


「体力もいる」


「半年あります」


 結衣は笑った。


 大河内も頷く。


「確かにな」


「大家さんまで」


「半年あれば歩ける距離も伸びる」


 栄治は黙る。


 窓の外で風が吹いている。


 紫陽花が揺れた。


 どこかで犬が鳴く。


 遠くを電車が走る。


 半年。


 来年じゃない。


 今年だ。


 十一月。


 十二月。


 まだ先だ。


 でも手が届かないほど遠くもない。


 栄治は画面を見る。


 武道館。


 大阪城ホール。


 神戸。


 若い頃なら何も考えず行ったかもしれない。


 今は違う。


 病院もある。


 薬もある。


 金もある。


 体力もある。


 だが。


 だからこそ少しずつ準備するという考え方もある。


 栄治は肉じゃがの最後のじゃがいもを口へ運んだ。


 ぽくぽくではなかった。


 でも悪くない。


 思っていたのとは違う。


 だけど結構うまい。


 人生みたいだな、と栄治は思った。


 若い頃に思い描いた未来とは違った。


 だが案外悪くない。


 栄治は笑った。


「よし」


「何です?」


 結衣が聞く。


 栄治はパソコンの画面を指差した。


「とりあえず」


「うん」


「明日から散歩十分増やす」


 結衣が笑う。


 大河内も笑う。


 六畳一間に笑い声が広がった。


 そして坂本栄治は、久しぶりに未来の予定を考えていた。


 まだ間に合う。


 その言葉は思った以上に、胸を温かくしてくれた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ