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老人  作者: かおるこ
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来年は行けるように頑張るかな

来年は行けるように頑張るかな


 六月の終わりだった。


 夜の風は少しだけ涼しくなり始めていた。


 ひだまり荘の二階。


 坂本栄治は風呂上がりの身体を扇風機に向けていた。


 首筋に風が当たる。


 気持ちいい。


 濃紺のストライプ柄パジャマはすっかりお気に入りになっていた。


 イオンで買った三千円もしない品だが、着心地がいい。


 昔は寝巻なんて何でもよかった。


 年を取ると変わるものだ。


 夕飯は肉じゃがだった。


 じゃがいも。


 玉ねぎ。


 人参。


 牛肉は少しだけ。


 味噌汁は豆腐と長ねぎ。


 ほうれん草のおひたし。


 麦茶。


 腹八分目。


 最近は医者に言われたことを少しだけ守っている。


「少しだけな」


 栄治は一人で呟いた。


 薬を飲む。


 そしてパソコンの前に座った。


 最近の夜の楽しみだった。


 動画を見たり。


 音楽を聴いたり。


 知らない世界を覗いたり。


 パソコンが立ち上がる。


 唸るような音。


 古い機械だ。


 だがまだ働いている。


「お前も頑張るな」


 栄治は画面を撫でた。


 その時だった。


 ふと目に飛び込んできた文字。


 HOUND DOG LIVE 2026。


 ROLLING 70 "ROCK'N'ROLL GOES ON"。


 栄治は瞬きをした。


「七十?」


 画面を読む。


 もう一度読む。


 さらに読む。


「大友康平七十歳?」


 老眼鏡を外す。


 かけ直す。


 やっぱり七十歳だった。


「嘘だろ」


 思わず笑った。


 七十歳。


 ライブ。


 東京。


 大阪。


 仙台。


 しかもタイトルがまた凄かった。


 ROLLING 70。


 転がる七十。


 ロックンロールし続ける七十。


 なんだそれ。


 格好良すぎる。


「反則だろ」


 栄治は椅子にもたれた。


 高校生の頃だった。


 HOUND DOGを初めて聴いたのは。


 友達の部屋だった。


 狭い六畳間。


 煙草の匂い。


 カップ麺の匂い。


 安いラジカセ。


 そこから流れてきた声。


 あのしゃがれた声。


 若かった自分たちは何も持っていなかった。


 金もない。


 車もない。


 彼女もいない。


 未来も見えない。


 それでも音楽だけはあった。


 あの頃は七十歳なんて想像もしていなかった。


 老人になるなんて考えたこともなかった。


 なのに。


 気がつけば自分は六十七歳。


 大友康平は七十歳。


 そしてまだライブをやっている。


「なんなんだよ」


 栄治は笑う。


 嬉しいような。


 悔しいような。


 不思議な気分だった。


 その時。


 玄関が鳴った。


 こんこん。


「坂本さん?」


 結衣だった。


「おう」


 ドアを開ける。


 結衣はコンビニの袋を持っていた。


「また音楽ですか?」


「また音楽だ」


「予想通りです」


 結衣が笑う。


 栄治は画面を指差した。


「見ろ」


「何です?」


「七十歳」


「はい」


「ライブ」


「はい」


「全国ツアー」


「はい」


「どうなってる」


 結衣は吹き出した。


「またですか」


「まただ」


 栄治は真顔だった。


「最近こういう化け物ばっかり見つかる」


「化け物って言わないでください」


「だって化け物だろ」


 二人で画面を見る。


 ライブ告知。


 写真の中の大友康平は笑っていた。


 年齢なんか知らないと言わんばかりに。


「格好いいな」


 結衣が言った。


「うん」


 栄治も頷く。


 素直にそう思った。


 若作りではない。


 無理をしている感じでもない。


 ただ前へ進んでいる。


 それが格好良かった。


 しばらく黙る。


 扇風機だけが回っている。


 外では虫が鳴いていた。


 栄治はぽつりと呟く。


「今年は無理だな」


「ライブですか?」


「うん」


 病院もある。


 金もいる。


 体力もいる。


 遠出は簡単じゃない。


 だが。


 不思議だった。


 落ち込まなかった。


「でも」


 結衣が言う。


「でも?」


「来年なら行けるかもしれませんよ」


 栄治は笑った。


「簡単に言うなあ」


「だって本当じゃないですか」


「来年か」


 その言葉が胸に残った。


 来年。


 昔は当たり前だった言葉だ。


 来年の予定。


 来年の旅行。


 来年の仕事。


 だが年を取ると少し重くなる。


 来年まで元気だろうか。


 病気はしないだろうか。


 そんなことを考えてしまう。


 けれど。


 画面の中の七十歳はライブをやろうとしている。


 だったら。


 六十七歳の自分が来年を楽しみにしてもいいじゃないか。


「そうだな」


 栄治は言った。


「うん」


「来年は行けるように頑張るかな」


 結衣が笑った。


「それがいいです」


 窓の外では夜風が吹いていた。


 遠くで電車の音が聞こえる。


 栄治はもう一度ライブ告知を見る。


 胸の奥が少し熱くなる。


 来年。


 その言葉は不安よりも少しだけ希望に近かった。


 パソコンの画面は静かに光っている。


 その光の向こうで、七十歳のロックンローラーはまだ転がり続けていた。


 そして坂本栄治もまた、小さくではあるが、前へ転がり始めていた。



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