日本は長寿国じゃなかったのか
日本は長寿国じゃなかったのか
夜の九時を過ぎていた。
ひだまり荘の二階。
坂本栄治は、イオンで買った濃紺のストライプ柄パジャマ姿で座卓の前に座っていた。
窓は少し開いている。
外から湿った夜風が入り込み、カーテンをゆっくり揺らしていた。
座卓の上には麦茶。
柿ピー。
そして半分だけ残ったみかんゼリー。
夕飯は鮭の塩焼きだった。
大根おろし。
ほうれん草のおひたし。
豆腐とわかめの味噌汁。
炊きたてのご飯。
最近にしては上出来だった。
栄治は満足していた。
満足していたのだが。
パソコンの画面を見て、また変な声を出した。
「ええ……」
老眼鏡を押し上げる。
「まだ現役?」
画面には海外ミュージシャンのライブ映像が並んでいた。
次から次へ。
関連動画。
おすすめ動画。
ライブ映像。
ドキュメンタリー。
栄治は頭を抱えた。
「なんなんだ、こいつら」
七十代。
八十代。
中にはそれ以上。
なのにライブ。
ツアー。
世界中を飛び回っている。
観客は何万人。
照明は派手。
音は爆音。
本人たちは笑っている。
元気そうだ。
元気どころではない。
怪物だった。
「化け物だろ……」
栄治は呟いた。
ラジオ体操から帰るだけで足が重い。
病院の待合室で疲れる。
薬を飲み忘れないようにメモを書く。
そんな自分と比べると、同じ人類とは思えなかった。
動画を見ているうちに玄関が鳴った。
こんこん。
「坂本さん」
結衣だった。
「おう」
ドアを開ける。
結衣はコンビニ袋を持っていた。
「大家さんからプリン預かってきました」
「なんで大家がプリンくれるんだ」
「賞味期限が明日だからです」
「理由が現実的だな」
二人で笑う。
結衣は部屋へ入った。
画面を見る。
「あー、また見てる」
「また見てる」
栄治は深刻そうな顔で頷いた。
「結衣ちゃん」
「はい」
「日本は長寿国じゃなかったのか」
「急にどうしたんですか」
栄治は画面を指差した。
「こいつら見ろ」
「はい」
「ライブ」
「はい」
「世界ツアー」
「はい」
「七十代」
「はい」
「八十代」
「はい」
「なんで俺は駅まで歩くと疲れるんだ」
結衣は吹き出した。
「比較対象がおかしいです」
「おかしくない」
「おかしいです」
「日本は長寿国だろ」
「そうですね」
「だったら日本中こんな老人だらけじゃないとおかしい」
「そんな理屈あります?」
結衣は笑いを堪えている。
栄治は真剣だった。
「なんか悔しい」
「悔しいんですか」
「悔しい」
その時だった。
また玄関が鳴った。
こんこん。
大河内だった。
「騒がしいぞ」
「大家さん」
「今度は何だ」
「見ろ」
「嫌な予感しかしない」
そう言いながら大河内も画面を見る。
三十秒後。
「なんだこりゃ」
大河内も同じ顔になった。
「だろ?」
「だろじゃない」
「化け物だろ」
「化け物だな」
二人は真顔で頷いた。
結衣が腹を抱えて笑い始める。
「もうやめて」
「何がだ」
「二人とも反応が同じなんですよ」
栄治は麦茶を飲んだ。
冷たい。
氷がからんと鳴る。
しばらく動画を眺める。
観客が歓声を上げている。
ステージの上では年配のミュージシャンが飛び跳ねている。
楽しそうだった。
本当に楽しそうだった。
大河内がぽつりと言った。
「俺な」
「うん」
「昔は老人ってもっと静かになるもんだと思ってた」
「分かる」
「盆栽やって」
「将棋やって」
「縁側でお茶飲んで」
「それが老人だと思ってた」
三人で画面を見る。
そこには縁側も盆栽もなかった。
爆音。
照明。
歓声。
汗。
全力だった。
栄治は笑った。
「固定観念だったんだな」
「かもしれませんね」
結衣が頷く。
「年を取ったらこうしなきゃいけない、みたいな」
部屋に少し沈黙が落ちた。
窓の外から虫の声が聞こえる。
どこかの部屋でテレビが鳴っている。
ひだまり荘の夜だった。
栄治はパソコン画面を見つめた。
若い頃。
六十七歳なんて、とっくに人生が終わっている年齢だと思っていた。
引退して。
静かに暮らして。
余生を送る。
そんなものだと思っていた。
だが今は違う。
六十七歳になっても、知らない音楽を見つけて興奮している。
知らない国のライブ映像を見て驚いている。
結衣や大河内と笑っている。
案外、人生は終わらない。
終わらせなければ。
「なあ」
栄治が言った。
「はい?」
「今からギター始めたら遅いかな」
結衣が目を丸くする。
大河内は盛大にむせた。
「ぶっ」
「なんだよ」
「いや」
大河内は咳き込みながら笑った。
「六十七歳で?」
「駄目か」
「別に駄目じゃない」
結衣も笑っている。
「いいじゃないですか」
「そうか?」
「うん」
栄治は少し考えた。
そして画面の向こうで笑っている老人たちを見た。
七十代。
八十代。
それでもステージに立つ人たち。
ふと胸の奥が熱くなる。
「よし」
小さく呟く。
「何がです?」
結衣が聞く。
栄治は笑った。
「まずは中古ギターの値段調べる」
結衣が吹き出した。
大河内も笑った。
部屋の中に笑い声が広がる。
パソコンの向こうでは音楽が鳴り続けていた。
夜はまだ長い。
そして坂本栄治の人生も、思っていたよりずっと長いのかもしれなかった。




