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老人  作者: かおるこ
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まじかー! まだ走ってるのか

まじかー! まだ走ってるのか


ラジオ体操を終えた坂本栄治は、ひだまり荘への坂道をゆっくり歩いていた。


六月の陽射しは朝から強い。


首にかけた白いタオルは汗で湿り、紺色のジャージの背中にも汗染みが広がっている。


息が上がる。


足が重い。


駅まで歩こうものなら途中で休憩が必要だ。


それでも栄治の顔はなぜか明るかった。


部屋へ戻る。


六畳一間。


窓辺には小さなポトス。


古い扇風機。


擦り切れた座布団。


そして十年以上使っているデスクトップパソコン。


電源を入れる。


ブォォォン。


年寄りの咳みたいな音を立てながら起動する。


「今日も生きてるな」


栄治は笑った。


冷蔵庫から麦茶を出す。


コップ一杯を一気に飲む。


冷たい液体が喉を通る。


生き返る気分だった。


椅子に座り、いつものように音楽を流した。


ギターが鳴る。


重いリフ。


胸の奥を揺らす音。


ブラック・ナイトだった。


栄治は自然に身体を揺らした。


肩が動く。


膝が動く。


足先がリズムを刻む。


六十七歳の身体の中から、小学生の栄治が顔を出していた。


あの日もこんな衝撃だった。


一九七〇年。


小学五年生。


畳の上で宿題をしていた時だった。


ラジオから流れてきた聞いたこともない音。


英語は分からない。


何を歌っているのかも分からない。


それでもギターだけは分かった。


世界にはこんな音があるのか。


胸が爆発しそうだった。


栄治は画面を見ながら笑った。


「懐かしいなあ」


曲が終わく。


もう一度再生する。


そして何気なく関連画面を開いた。


そこに表示された文字を見て固まった。


六月十一日。


フィンランド。


六月十二日。


フィンランド。


六月十四日。


ノルウェー。


栄治は老眼鏡を外した。


目をこする。


もう一度見る。


同じだった。


「え?」


さらに見る。


「え?」


立ち上がる。


「えええっ?」


部屋中に声が響いた。


栄治は画面を指差した。


「まじかー!」


思わず叫ぶ。


「ライブやってんの!?」


誰もいない部屋なのに叫ぶ。


「まだ現役!?」


さらに日程を見る。


「フィンランド?」


「ノルウェー?」


「海越えてるじゃねえか!」


栄治は頭を抱えた。


ブラック・ナイトが流れている。


ギターが吠えている。


その向こうで表示されているライブ日程。


「嘘だろ」


栄治は笑い始めた。


「俺がランドセル背負ってた頃の連中だぞ!」


「何歳なんだよ!」


「化け物か!」


興奮のあまり腕を振り上げる。


胸をそらす。


身体を左右に揺らす。


ギターに合わせて踊る。


途中で足がもつれる。


「うおっ」


危うく転びそうになる。


テーブルにつかまる。


「危ない危ない」


そしてまた笑う。


その時だった。


コンコン。


玄関が鳴った。


「坂本さん?」


結衣だった。


栄治は勢いよくドアを開けた。


「結衣ちゃん!」


「どうしたんですか」


「見ろ!」


「え?」


「これ!」


結衣は画面を見た。


「ああ、ライブですね」


「ライブですねじゃない!」


栄治は興奮している。


「俺が小学生の時だぞ!」


「はい」


「俺が算数の宿題やってた頃だぞ!」


「はい」


「まだライブしてる!」


結衣は吹き出した。


「元気ですねえ」


「元気どころじゃない!」


「確かにすごいです」


栄治は椅子に座った。


しかし落ち着かない。


また立つ。


また座る。


忙しい。


そこへさらに大河内が現れた。


「何の騒ぎだ」


「大家さん!」


「今度は何だ」


「これ見ろ!」


大河内は画面を覗く。


しばらく黙る。


「まだやってるのか」


「そうなんだよ!」


「信じられん」


「だろ!」


二人は顔を見合わせた。


まるで少年だった。


昼になる。


栄治は焼きそばを作った。


豚肉。


もやし。


キャベツ。


鉄板の上でジュウジュウ音を立てる。


ソースの香りが部屋いっぱいに広がった。


目玉焼きをのせる。


三人で食べる。


「うまいな」


大河内が言う。


「だろ」


「病院食より百倍いい」


「比べるな」


結衣が笑う。


窓の外では風が吹いていた。


紫陽花が揺れている。


ブラック・ナイトはまだ流れている。


食後。


栄治は窓辺に立った。


フィンランド。


ノルウェー。


行ったこともない国だった。


きっと寒いのだろう。


きっと遠いのだろう。


それでもあの連中は行く。


ステージへ。


客の前へ。


何十年も前に始めた音楽を抱えて。


栄治は静かに呟いた。


「参ったな」


胸の奥が少し熱かった。


羨ましいのかもしれない。


嬉しいのかもしれない。


自分でも分からなかった。


ただ一つ分かることがある。


まだ終わっていない人たちがいる。


七十代になっても。


八十代になっても。


遠い国でギターを鳴らしている人たちがいる。


夕方。


ひだまり荘の部屋に一つずつ灯りがともる。


栄治も電気をつけた。


窓ガラスに自分の姿が映る。


白髪。


皺。


少しくたびれた顔。


だがその顔は笑っていた。


ブラック・ナイトのギターが再び鳴る。


栄治は胸をそらした。


そして誰も見ていない部屋で、小さく拳を握った。


「よし」


何がよしなのか分からない。


それでも自然に言葉が出た。


窓の外では夜が近づいていた。


だが栄治には、その夜が少しだけ明るく見えた。


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