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老人  作者: かおるこ
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ブラック・ナイト

ブラック・ナイト


六月の朝だった。


ひだまり荘の前の公園では、ラジオ体操が終わったばかりだった。


坂本栄治は息を切らしながらベンチに腰を下ろした。


紺色のジャージは汗で少し湿っている。


首にかけた白いタオルで額を拭いた。


六十七歳。


脳梗塞を経験した身体は昔のようには動かない。


駅まで歩けば途中で休憩が必要になる。


階段も手すりなしでは不安がある。


それでも今朝の栄治は妙に元気だった。


「おはようございます」


近所の女性が声をかける。


「おう、おはよう」


「今日は機嫌がいいですね」


「分かるか?」


「分かりますよ。顔が違います」


栄治は照れくさそうに笑った。


「秘密だ」


実は昨夜から胸の奥がそわそわしていた。


理由は単純だった。


昔好きだった曲を久しぶりに見つけたのだ。


ひだまり荘へ戻る。


古い木造アパート。


二階の廊下を歩く。


紫陽花の鉢植えが朝日に光っている。


鍵を開ける。


六畳一間の部屋。


小さな流し台。


窓際のテーブル。


そして十年以上前に買った古いデスクトップパソコン。


サポートも切れている。


起動は遅い。


時々固まる。


それでも栄治にとっては大切な相棒だった。


冷蔵庫を開ける。


朝食は昨日買ったロールパンとゆで卵。


インスタントコーヒー。


バナナ一本。


質素だが嫌いではない。


窓を開けると雨上がりの風が流れ込んできた。


栄治は椅子に腰掛ける。


パソコンを起動する。


ブォォォン。


ファンの音が響く。


しばらく待つ。


ようやく画面が明るくなる。


そして例の動画を再生した。


ギターが鳴った。


あの有名なリフ。


重く。


力強く。


腹の底を揺らす音。


栄治の目が輝いた。


「おお……」


思わず声が漏れる。


ボリュームを少し上げる。


リフが部屋中に響いた。


栄治は椅子から立ち上がる。


身体を左右に揺らした。


肩を振る。


腕を上げる。


胸をそらす。


若い頃のロック少年が戻ってきたようだった。


「そうだよなぁ!」


誰もいない部屋で叫ぶ。


ギターがむせび泣く。


栄治も笑う。


またリピートする。


もう一回。


さらにもう一回。


三回目になる頃には完全にノリノリだった。


腕を振り上げる。


膝を曲げる。


リズムを取る。


しかし。


急に足がもつれた。


「うおっ!」


危うく転びそうになる。


テーブルにしがみつく。


心臓がドキリとした。


しばらく動かない。


そして苦笑した。


「若いつもりか、俺は」


額に汗がにじむ。


だが笑いは止まらなかった。


その時。


玄関のチャイムが鳴った。


ピンポーン。


栄治は慌てて音量を下げる。


ドアを開けると大家の大河内が立っていた。


七十二歳。


相変わらず仏頂面である。


「朝から騒がしいぞ」


「す、すみません」


「何してた」


「ちょっと音楽を」


大河内は部屋の中をのぞいた。


パソコンからまだギターの音が流れている。


栄治は叱られると思った。


ところが。


大河内は固まった。


目を見開く。


数秒後。


ぽつりと言った。


「それ……ディープ・パープルか?」


栄治も固まった。


「知ってるんですか?」


「知ってるも何も」


大河内は鼻を鳴らした。


「高校生の頃にコピーしてた」


「えっ?」


「ギターも持ってた」


「本当に?」


二人は顔を見合わせた。


そして同時に笑った。


まるで少年同士みたいだった。


「入るか?」


「少しだけだぞ」


大河内は部屋へ入った。


二人で椅子に座る。


栄治はコーヒーを淹れた。


湯気が立つ。


インスタントだが香りは悪くない。


「懐かしいな」


大河内が言う。


「昔は長髪だったんだ」


「嘘だろ」


「本当だ」


「想像できん」


二人は大笑いした。


話は尽きなかった。


学生時代。


初めて買ったレコード。


文化祭。


バンド仲間。


就職。


結婚。


いつの間にか昼近くになっていた。


昼食は栄治が作った焼きそばだった。


豚肉ともやしを炒める。


ソースの香りが部屋いっぱいに広がる。


半熟の目玉焼きをのせる。


「うまそうだな」


「食うか?」


「遠慮なく」


二人は並んで食べた。


窓の外では風が吹いている。


紫陽花が揺れる。


ギターはまだ鳴り続けていた。


食後。


大河内が不意に言った。


「なあ」


「ん?」


「お前が倒れた時な」


栄治は箸を止めた。


三か月前。


見守りシステムのおかげで助かった日を思い出す。


「覚えてる」


「正直な」


大河内は窓の外を見た。


「俺は高齢者なんか入れるんじゃなかったと思った」


栄治は黙って聞いた。


「でもな」


大河内は続けた。


「今は少し違う」


「どう違う?」


「人間はリスクだけじゃ測れん」


静かな声だった。


「お前がいると、このアパートが少し明るい」


栄治は返事ができなかった。


胸が熱くなる。


外では子どもの笑い声が聞こえた。


どこかで風鈴が鳴っている。


大河内は照れくさそうに立ち上がった。


「じゃあ帰る」


「また来いよ」


「その曲、今度もっと大きい音で聞かせろ」


「苦情言うなよ」


「俺も歌う」


「近所迷惑だ」


二人は笑った。


ドアが閉まる。


静かな部屋。


栄治は窓辺に立った。


夕方の光が差し込んでいる。


パソコンから再びギターが鳴る。


重く。


激しく。


それでいてどこか切ない音。


若い頃には分からなかった。


ロックは反抗だけではない。


生きてきた時間そのものなのだ。


失った人。


叶わなかった夢。


それでも続く人生。


ギターは泣いていた。


だが絶望ではない。


生きている者の涙だった。


栄治は胸をそらした。


腕を上げた。


そして誰も見ていない部屋で、もう一度だけ身体を大きく揺らした。


「まだ終わりじゃないぞ」


夕暮れの六畳一間に、ギターのむせび泣く音がいつまでも響いていた。



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