第36話 続くと思っていた場所
第36話 続くと思っていた場所
七月のある蒸し暑い朝だった。
ひだまり荘の廊下には昨夜の雨の湿気が残っていた。窓の外では雲の切れ間から弱い日差しが差し込み、アスファルトの上からむっとした熱気が立ち上っている。
坂本栄治は郵便受けから持ち帰った封筒を、ちゃぶ台の上に置いた。
差出人を見た瞬間、少し顔が緩む。
ゆうゆうデイサービスセンター。
週に二回通っている場所だった。
送迎車が来てくれる。
機能訓練ができる。
昼飯が出る。
風呂もある。
だが栄治にとって大事なのは、そういうことだけではなかった。
封を切る。
紙を広げる。
そして栄治は動きを止めた。
施設閉鎖のお知らせ。
来月末をもって営業終了。
しばらく文字を見つめる。
読み間違いかと思った。
もう一度読む。
やはり同じだった。
「なくなるのか」
誰もいない部屋に声が落ちた。
窓の外で風鈴が鳴った。
ちりん。
ちりん。
やけに寂しい音だった。
翌週。
送迎車が迎えに来た。
栄治は紺色のポロシャツに灰色のスラックスを穿いていた。
少し色褪せた帽子を被る。
いつもの格好だった。
送迎車のドアが開く。
「おはようございます、坂本さん」
運転手の田中が笑う。
「おう」
乗り込む。
後部座席には顔なじみが並んでいた。
「聞いた?」
前の席の女性が言った。
「聞いた」
「困るわよねぇ」
「そうだな」
会話はそれだけだった。
皆、何と言えばいいのか分からないのだ。
施設へ着く。
自動ドアが開く。
冷房の風。
消毒液の匂い。
職員たちの声。
「おはようございます!」
いつもと同じ朝。
なのに、どこか違う。
終わりが見えてしまったからだ。
栄治は機能訓練室へ向かった。
窓際にはエアロバイク。
足踏み運動器。
平行棒。
腕を動かす器具。
スポーツジムみたいな機械が並んでいる。
最初に来た時は驚いた。
「年寄りの集会所かと思ったら本格的だな」
そう言ったら職員たちに笑われた。
エアロバイクに腰掛ける。
ゆっくり漕ぐ。
足が動く。
膝が曲がる。
汗が滲む。
理学療法士の中村が近づいてきた。
「坂本さん、調子どうです?」
「まあまあだ」
「歩く速度も落ちてませんね」
「ここのおかげだろ」
栄治は何気なく答えた。
そして言葉が止まる。
本当にそうだった。
ここへ来ると体を動かす。
皆と話す。
笑う。
だから外へ出る気になる。
年を取ると、家から出なくなる人も多い。
だが栄治は違った。
この場所があったからだ。
昼食の時間。
食堂には味噌汁の香りが漂っていた。
今日の献立は鶏肉の照り焼き。
ご飯。
ほうれん草のおひたし。
かぼちゃの煮物。
なめこの味噌汁。
栄治は箸を取った。
「うまいな」
「坂本さん、いつもそれ言いますね」
職員の佐藤が笑う。
「うまいもんはうまい」
「ありがとうございます」
佐藤は笑った。
その笑顔を見る。
もう三年近い付き合いだった。
栄治はふと思った。
次の施設へ行ったら、この人はいない。
田中もいない。
中村もいない。
利用者たちもいない。
また一からだ。
また名前を覚える。
また病気を説明する。
また人間関係を作る。
若い頃なら何とも思わなかった。
転勤もした。
取引先も変わった。
新しい人間関係などいくらでも作れた。
だが今は違う。
面倒なのだ。
疲れるのだ。
ようやく慣れた頃には、また年を取っている。
昼食後。
栄治は窓際の椅子に座っていた。
庭で向日葵が揺れている。
隣に座った老人が言った。
「次どこ行く?」
「まだ決めてない」
「俺も」
老人はため息をついた。
「知らない場所は嫌だな」
栄治は黙って頷いた。
まさに同じ気持ちだった。
知らない職員。
知らない送迎車。
知らない席。
知らない匂い。
知らない空気。
若い人は変化を楽しめるのかもしれない。
だが年寄りは違う。
安心したいのだ。
同じ顔。
同じ席。
同じ会話。
それで十分なのだ。
帰りの送迎車。
窓の外を流れる景色を眺める。
スーパー。
薬局。
公園。
いつもの道。
ふと栄治は思った。
自分は、この施設が最後まで続くと思っていた。
五年後も。
十年後も。
もっと足が弱っても。
もっと年を取っても。
ここへ来ればいいと思っていた。
だから安心していられた。
その安心が消えてしまった。
それが寂しいのだ。
ひだまり荘へ戻る。
夕暮れだった。
部屋へ入り、麦茶を飲む。
冷たい。
喉を通る。
窓の外では赤く染まった雲がゆっくり流れていた。
栄治は静かに呟いた。
「ずっとあると思ってたんだけどな」
それは施設への言葉だったのか。
歳月への言葉だったのか。
自分でも分からない。
ただ胸の奥が少しだけ痛かった。
風鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
夏が近づいていた。




