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老人  作者: かおるこ
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第37話 消えてはいけない場所

第37話 消えてはいけない場所


 六月中旬の朝だった。


 昨夜の雨が上がり、ひだまり荘の庭先では紫陽花の葉に水滴が残っている。


 坂本栄治は窓を開けた。


 湿った風が部屋へ流れ込む。


 遠くで小学生たちの登校する声が聞こえた。


 栄治は薄いグレーのポロシャツに紺色のズボンを穿き、湯呑みに麦茶を注いだ。


 ちゃぶ台の上には昨日の新聞が置いてある。


 だが文字を追う気にはなれなかった。


 頭の中にあるのは、デイサービス閉所の話ばかりだった。


 あれから一週間。


 施設へ行くたびに利用者たちの顔が暗くなっている。


 今日も送迎車に乗ると、車内は静かだった。


 誰もが窓の外を見ている。


 やがて吉田がため息をついた。


「困ったなあ」


「そうだな」


 栄治も頷く。


「次が決まらねえ」


「俺もだよ」


 山口が言った。


「送迎範囲が合わないんだと」


「そんなの利用者には関係ねえだろうに」


「関係なくても駄目なんだってさ」


 車内に重い空気が流れた。


 デイサービスへ到着する。


 自動ドアが開く。


 冷房の涼しい風。


 消毒液の匂い。


 職員たちの挨拶。


 全部いつもと同じだった。


 だから余計に信じられない。


 この場所がなくなるなんて。


 機能訓練室へ向かう。


 窓際のエアロバイク。


 平行棒。


 足踏み運動器。


 歩行訓練器。


 スポーツジムみたいな器具が朝日を浴びていた。


 理学療法士の中村が笑う。


「坂本さん、今日は機嫌悪そうですね」


「悪い」


「正直ですね」


「腹が立ってる」


 中村は苦笑した。


「皆さん同じですよ」


「中村さんもか」


「もちろんです」


 少し沈黙が流れた。


 栄治はペダルを漕ぎながら言った。


「年寄りは増えてるんだぞ」


「はい」


「だったらこういう所も増えなきゃおかしいだろ」


「……そうですね」


「何で逆なんだ」


 中村は答えなかった。


 答えられないのだ。


 昼前になると利用者たちは談話スペースへ集まった。


 いつもならテレビを見たり将棋を指したりしている時間だった。


 だが今日は違う。


 話題は一つだった。


「次の施設が遠いのよ」


 佐々木が言った。


「片道四十分だって」


「俺なんか三か所断られたぞ」


 吉田がぼやく。


「空きがないんだと」


「年寄り増えてるのに?」


「そうだよ」


「変な話だな」


 皆が頷く。


 栄治は黙って聞いていた。


 その時だった。


 施設長が通りかかる。


 吉田が呼び止めた。


「施設長」


「はい」


「本当に何とかならないのか」


 施設長は立ち止まった。


 少し痩せたように見える。


「申し訳ありません」


「謝る話じゃない」


 栄治が言った。


 施設長が顔を上げる。


「俺は不思議なんだ」


「はい」


「電車がなくなったら困るだろ」


「そうですね」


「バスがなくなったら困る」


「はい」


「だったらデイサービスだって同じじゃねえか」


 談話スペースが静かになった。


 皆が栄治を見ている。


「年寄りにとっちゃ生活の一部だぞ」


「……」


「病院と家だけで生きてるわけじゃない」


 栄治は続けた。


「ここがあるから外へ出る」


「ここがあるから身体を動かす」


「ここがあるから人と話す」


「それなのに無くなりますで終わりか」


 施設長は目を伏せた。


「私もそう思っています」


 小さな声だった。


 職員たちも立ち止まっていた。


 佐藤が唇を噛んでいる。


 中村も黙っている。


 誰も反論しなかった。


 反論できないのだ。


 夕方。


 帰りの送迎車。


 車窓から夕焼けが見えた。


 赤い雲が流れている。


 栄治はぼんやり眺めた。


 すると隣の席の吉田が言った。


「昔はよ」


「ん?」


「赤字でも町営バス走ってたんだよ」


「そうだったな」


「儲かるから走ってたわけじゃねえ」


「必要だからだ」


 二人は顔を見合わせた。


 そして同時に頷いた。


 ひだまり荘へ帰る。


 玄関前では三浦結衣が自転車を止めていた。


「あ、坂本さん」


「おう」


「元気ないですね」


「そう見えるか」


「見えます」


 栄治は少し笑った。


「当たり前だ」


「ですよね」


 二人は並んで歩く。


 夕暮れの空が薄紫色に染まっていた。


「結衣さん」


「はい」


「俺たち年寄りはな」


「はい」


「そんなに変化を求めてないんだ」


 結衣は黙って聞いていた。


「同じ場所でいい」


「同じ人でいい」


「同じ景色でいい」


「それで十分なんだよ」


 風が吹いた。


 紫陽花が揺れる。


 結衣は小さく頷いた。


「そうかもしれませんね」


「だろ」


 栄治は空を見上げた。


 老人が増えている。


 これからもっと増える。


 なのに居場所は減っていく。


 その矛盾がどうしても理解できなかった。


 窓に明かりが灯る。


 ひだまり荘の住人たちが帰ってきたのだ。


 栄治はその灯りを見つめた。


「消えちゃいけない場所ってあると思うんだ」


 誰に言うでもなく呟く。


 結衣は静かに頷いた。


 六月の夕暮れは、いつもより少しだけ寂しく見えた。



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