第36話 閉じる扉
第36話 閉じる扉
六月の初めだった。
朝から雲が広がっていた。
坂本栄治はひだまり荘の玄関前で送迎車を待っていた。
五月の終わりに見た満月が嘘みたいに、今日は空が白い。
湿った風が吹いている。
紫陽花が少しずつ色づき始めていた。
やがて白い送迎車がやって来る。
自動ドアが開いた。
「おはようございます」
運転手の田中が笑う。
「おう」
栄治は乗り込んだ。
いつもの席。
いつもの匂い。
いつもの顔ぶれ。
杖をついた吉田。
耳の遠い山口。
編み物好きの佐々木。
皆、何年も同じ曜日に顔を合わせてきた。
送迎車は住宅街をゆっくり走る。
車窓から見える景色も見慣れたものだった。
この時間が栄治は好きだった。
施設に着く前から一日が始まる気がした。
デイサービスへ到着する。
自動ドアが開く。
冷房の涼しい風。
消毒液の匂い。
職員たちの挨拶。
「坂本さん、おはようございます!」
「おう」
栄治は靴を履き替えた。
機能訓練室へ向かう。
大きな窓。
エアロバイク。
足踏み運動器。
歩行訓練器。
平行棒。
スポーツジムみたいな器具が並んでいる。
初めて来た時は驚いた。
老人の集まりだと思っていたら違った。
皆が汗を流していた。
皆が頑張っていた。
そして何より職員たちが利用者一人ひとりの名前を覚えていた。
栄治はエアロバイクに腰掛ける。
ゆっくり足を動かす。
「坂本さん、調子いいですね」
理学療法士の中村が声を掛ける。
「そうか?」
「先月より回数増えてます」
「毎日壁腕立て伏せやってるからな」
「本当ですか?」
「嘘ついてどうする」
二人は笑った。
こんな会話も当たり前になっていた。
だから、その日の昼前だった。
利用者全員がホールへ集められた時、何となく嫌な予感がした。
職員たちの顔が硬い。
施設長が前へ出る。
五十代後半の穏やかな男性だった。
いつも冗談を言う人だ。
なのに今日は笑っていない。
「皆さんにお話があります」
室内が静まる。
時計の秒針が聞こえそうだった。
施設長は深く頭を下げた。
「この施設は八月末をもって閉所することになりました」
一瞬、誰も反応できなかった。
言葉の意味が頭に入らない。
やがて、
「え?」
という声が上がる。
「閉所?」
「なくなるの?」
「冗談でしょう?」
ざわめきが広がった。
職員たちはうつむいている。
施設長は再び頭を下げた。
「申し訳ありません」
佐々木が立ち上がった。
小柄な女性だった。
「どうして?」
声が震えている。
「利用者いるじゃない」
「……はい」
「いつもいっぱいじゃない」
「はい」
「じゃあ何でよ」
施設長は苦しそうな顔をした。
「電気代も上がりました。送迎車の維持費も上がりました。職員の確保も難しくなっています」
「でも必要な人は増えてるでしょう!」
別の利用者が言った。
「そうだよ!」
「年寄り増えてるじゃない!」
「何で潰れるんだよ!」
声が飛ぶ。
怒っている。
でも本当は皆、不安なのだ。
栄治は黙っていた。
怒鳴る気力もなかった。
ただ理解できなかった。
老人は増えている。
デイサービスを必要とする人も増えている。
なのに施設は減っていく。
何だそれは。
誰のための社会なんだ。
施設長が言う。
「本当に申し訳ありません」
その声は掠れていた。
栄治はその時気付いた。
施設長も辛いのだ。
職員たちも辛いのだ。
若い職員の一人は涙を拭いていた。
中村も唇を噛んでいる。
誰も好きで閉めるわけじゃない。
それでも閉めなければならない。
それが余計に苦しかった。
帰りの送迎車。
誰も喋らなかった。
いつもなら冗談が飛ぶ。
テレビの話もする。
今日は違う。
窓の外だけを見ている。
やがて吉田がぽつりと言った。
「また一からか」
誰も返事をしなかった。
だが全員が同じ気持ちだった。
また新しい場所。
また新しい職員。
また新しい利用者。
また一から関係を作る。
若い頃なら何とも思わなかった。
だが年を取ると違う。
やっと慣れたのだ。
やっと安心できたのだ。
年寄りは変化なんか求めていない。
同じ席。
同じ顔。
同じ会話。
それで十分なのだ。
送迎車がひだまり荘へ着く。
栄治は部屋へ戻った。
窓を開ける。
風が入ってくる。
遠くで子どもたちの声がした。
ちゃぶ台に座る。
静かな部屋だった。
ふと機能訓練室のことを思い出す。
エアロバイク。
平行棒。
歩行訓練器。
あの器具が好きだった。
運動のためだけじゃない。
あそこへ行けば中村がいて、田中がいて、皆がいた。
そして栄治はずっと思っていた。
今はまだ元気だ。
自転車にも乗れる。
歩ける。
だが五年後は。
十年後は。
もっと年を取ったら。
その時も、ここへ通えばいい。
そう思っていた。
だから安心していた。
その未来ごとなくなってしまった。
窓の外で紫陽花が揺れる。
六月の風だった。
栄治は静かに呟いた。
「続くと思ってたんだけどな」
誰も答えない。
ただ夕方の光だけが、静かに部屋へ差し込んでいた。




