第35話 俺だけの空
第35話 俺だけの空
五月三十一日の夕方だった。
ひだまり荘の廊下には夕飯の匂いが漂っていた。
どこかの部屋からは味噌汁の香り。
別の部屋からは焼き魚の匂い。
醤油の焦げる匂いが風に混じって流れてくる。
坂本栄治は一〇二号室のちゃぶ台に肘をつきながら、窓の外を眺めていた。
昼間の暑さが嘘みたいに和らいでいる。
テレビでは天気予報が流れていた。
「今夜の満月はブルームーン。そして今年最も地球から遠い満月、マイクロムーンです」
若い女性アナウンサーが笑顔で説明している。
栄治は耳をぴくりと動かした。
「ほう」
ブルームーン。
マイクロムーン。
難しいことはよく分からない。
だが満月と聞くと少し気になる。
昔から月が好きだった。
子どもの頃、萩の夜道を歩きながら見上げた月。
工場勤めの帰り道に見た月。
妻と並んで見た月。
月だけはどこへ行っても同じだった。
栄治は立ち上がった。
押し入れから黒いカメラバッグを取り出す。
中古で買ったカメラだった。
三万円もしなかった。
本格的な一眼レフというほど立派なものではない。
それでも栄治にとっては宝物だった。
「よし」
カメラを首から下げる。
ずしりと重い。
「重てぇな」
思わず笑う。
毎日壁腕立て伏せもしている。
ラジオ体操も欠かさない。
なのに腕の筋肉は勝手に落ちていく。
年を取るとは不思議なものだ。
「若い頃なら片手で振り回してたぞ」
誰も聞いていないのに文句を言う。
もちろん若い頃だって振り回してはいない。
ただそう言いたくなるだけだった。
玄関を出ると、ちょうど三浦結衣が自転車を押していた。
「あれ?」
結衣が目を丸くする。
「坂本さん、どこ行くんですか」
「撮影」
「撮影?」
栄治は少し得意そうにカメラを持ち上げた。
「今日は満月らしい」
「へぇ」
「ブルームーン」
「ブルームーンって青いんですか?」
「知らん」
「知らないんですか」
二人は笑った。
「でも見に行く」
「子どもみたいですね」
「うるさい」
結衣は楽しそうに笑う。
「じゃあ私は帰ります」
「おう」
「転ばないでくださいね」
「年寄り扱いするな」
「してます」
「素直か」
また笑い声が広がった。
栄治は自転車を押しながら河川敷へ向かった。
途中で足を止める。
西の空が燃えていた。
「おぉ……」
思わず声が漏れる。
空が灰色だった。
赤かった。
青かった。
白かった。
その全部が混じり合っていた。
夕焼けという言葉だけでは足りない。
絵の具を水に溶かしたみたいな繊細な色だった。
栄治は慌ててカメラを構える。
シャッターを切る。
カシャッ。
また切る。
カシャッ。
風が吹いた。
川の匂い。
草の匂い。
どこかの家から漂うカレーの匂い。
全部が夕暮れの中に溶けている。
「綺麗だなぁ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
自転車を少し走らせる。
するとまた景色が変わる。
電柱の位置が変わる。
屋根の高さが変わる。
雲の見え方が変わる。
同じ空なのに別の空みたいだった。
栄治は立ち止まる。
「面白ぇな」
十メートル。
二十メートル。
百メートル。
たったそれだけで世界が変わる。
さらに家へ近づく。
すると空は狭くなった。
マンション。
電柱。
住宅の屋根。
視界が切り取られる。
さっきまで見えていた色が少しずつ消えていく。
赤も。
青も。
灰色も。
飲み込まれていく。
「同じ空なのにな」
栄治はカメラを下ろした。
不思議だった。
同じ空の下にいる。
同じ時間を生きている。
それなのに見える景色は全然違う。
昔、妻と旅行へ行った時もそうだった。
同じ海を見ているのに、
「空が綺麗」
と言う妻と、
「魚が釣れそうだな」
と言う自分がいた。
人間はみんな違う。
同じものを見ていても違う。
だから面白いのかもしれない。
河川敷へ着く頃には夕焼けは終わりかけていた。
代わりに東の空に白い月が浮かんでいる。
静かな満月だった。
栄治は三脚を立てる。
カメラを固定する。
設定をいじる。
説明書なんて読んでいない。
だから失敗ばかりだ。
「よし」
シャッターを切る。
カシャッ。
月が映る。
少しぼやけている。
「うーん」
もう一枚。
カシャッ。
また一枚。
カシャッ。
少しずつ形になっていく。
栄治は夢中だった。
子どもの頃、虫取りをしていた時みたいに。
時間を忘れていた。
気が付くと周囲は暗くなっていた。
川面に月が揺れている。
風が涼しい。
栄治はカメラをしまった。
「ありがとう」
ふと口から言葉が出た。
誰に向かってか分からない。
空か。
月か。
地球か。
それとも今日という日か。
分からない。
だが感謝したくなった。
あの夕焼けを見られたこと。
この満月を見られたこと。
今ここに立っていること。
全部だ。
自転車を押しながら帰る。
住宅街の灯りがひとつ、またひとつと増えていく。
その中にひだまり荘の灯りも見えた。
栄治は少し笑う。
「俺だけの空か」
誰も聞いていない。
それでも続ける。
「俺だけの一瞬か」
夜風が頬を撫でた。
月は黙って空に浮かんでいる。
栄治は照れ臭そうに鼻をかいた。
「ありがとうございます」
少し間を置く。
それから一人で笑った。
「なーんちゃってな」
五月最後の満月が、静かにひだまり荘を照らしていた。




