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老人  作者: かおるこ
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第34話 午前五時四十五分の戦い

第34話 午前五時四十五分の戦い


 五月の終わりの朝は妙に静かだった。


 午前五時二十八分。


 ひだまり荘の一〇二号室で、坂本栄治は布団の中から天井を見上げていた。


 目は覚めている。


 だが体が起きたがらない。


 窓の外では雀が鳴いている。


 薄いカーテン越しに朝の光がにじみ始めていた。


 栄治は掛け布団を首元まで引き上げる。


「寒いな……」


 昨日の昼間は汗ばむほどだった。


 それなのに朝は肌寒い。


 年を取ると体温調節が下手になる。


 若い頃はこんなこと考えもしなかった。


 時計を見る。


 五時三十分。


 ラジオ体操へ行くなら、そろそろ起きなければならない。


 だが気持ちが動かない。


 椅子には昨日着ていた紺色のポロシャツが掛かっていた。


 見慣れた服だ。


 別に汚れているわけではない。


 昨日一日着ただけだ。


 けれど、それをそのまま着て出掛ける気にもなれない。


「昨日の服で行きたくねぇなぁ……」


 誰もいない部屋で呟く。


 ならシャワーを浴びればいい。


 それも分かっている。


 だが面倒だった。


 とてつもなく面倒だった。


 風呂場へ行く。


 服を脱ぐ。


 お湯を出す。


 髭を剃る。


 髪を乾かす。


 着替える。


 若い頃なら何でもなかった。


 今は違う。


 ひとつひとつに小さな決意がいる。


「もういいよ……」


 思わず声が漏れた。


 今日は休んでもいいんじゃないか。


 誰も怒らない。


 結衣だって来ない。


 大河内だって知らない。


 ラジオ体操を一日休んだからって世界は終わらない。


 その時だった。


 ふと昨夜見た映画の予告が頭をよぎる。


『PLAN 75』


 以前見た映画だった。


 七十五歳になると自ら人生を終える選択肢が与えられる世界。


 静かな映画だった。


 だからこそ怖かった。


 栄治は布団の中で天井を見た。


「七十五か……」


 あと八年。


 長いような短いような数字だった。


 八年前を思い返そうとしてみる。


 妻はまだ生きていた。


 一軒家にも住んでいた。


 仕事もしていた。


 それが今では全部なくなっている。


「八年なんて、あっという間だな」


 ぽつりと言う。


 窓の外で鳥が鳴いた。


 朝の空気が少しずつ白んでいく。


 もし人生の終わりが最初から決まっていたら。


 もっと一日を大切にするのだろうか。


 もっと丁寧に生きるのだろうか。


 もっと優しくなれるのだろうか。


 栄治には分からなかった。


 ただ一つだけ分かることがある。


 人間は終わりがあるから生きている。


 妻が亡くなった時、それを嫌というほど思い知った。


 永遠に続くと思っていた夕飯も。


 他愛ない会話も。


 テレビを見ながら笑う時間も。


 全部終わった。


 ある日突然。


 だから今もこうして朝を迎えられることは、本当は当たり前ではないのかもしれない。


 栄治はゆっくり起き上がった。


「よし」


 声に出してみる。


 誰も聞いていない。


 それでも声に出す。


 そうしないと体が動かない。


 シャワーを浴びる。


 温かい湯が肩に当たる。


 固まっていた筋肉が少しほぐれる。


「あー……」


 思わず声が漏れた。


 気持ちいい。


 ほんの数分前まで嫌だったのが嘘みたいだった。


 人間なんて単純だ。


 着替えを済ませる。


 薄いグレーの長袖シャツ。


 黒いジャージ。


 洗いたての靴下。


 柔軟剤の匂いが少し残っている。


 台所へ立つ。


 食パンを焼く。


 トースターから香ばしい匂いが漂う。


 小さなフライパンで目玉焼きを焼く。


 黄身の縁がぷつぷつ音を立てた。


 インスタントコーヒーを淹れる。


 湯気が立ち上る。


 その香りだけで少し幸せな気持ちになる。


「いただきます」


 誰もいない部屋で言う。


 サクッ。


 トーストが音を立てる。


 黄身がとろりと流れた。


「うまいな」


 思わず笑う。


 昨夜の鯵の南蛮漬けもうまかった。


 今朝のトーストもうまい。


 まだ味が分かる。


 まだ空がきれいだと思える。


 まだ誰かと話したいと思える。


 だったら――。


 昨日自分が言った言葉を思い出した。


『まだ不要じゃねえんじゃねえかな』


 あれは結衣に向かって言った言葉だった。


 だが本当は、自分自身に向かって言っていたのかもしれない。


 時計を見る。


 五時四十四分。


「おっと」


 慌てて立ち上がる。


 帽子を取る。


 鍵を持つ。


 玄関を開ける。


 ひだまり荘の廊下は朝露の匂いがした。


 外へ出る。


 空は薄い水色に染まり始めている。


 東の空だけが金色だった。


 遠くで誰かが歩いている。


 犬の散歩だろうか。


 ラジオ体操の会場へ向かう人影も見えた。


 栄治はゆっくり歩き出す。


 膝は少し痛む。


 腰も重い。


 若い頃みたいにはいかない。


 それでも足は前へ出る。


 今日という日は二度と来ない。


 明日も来る保証はない。


 だからせめて。


 今日くらいはちゃんと生きよう。


 五月の朝風が頬を撫でた。


 栄治は少しだけ背筋を伸ばした。


 午前五時四十五分。


 今日もまた、小さな戦いに勝ったのだった。




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