第33話 人間の値段
第33話 人間の値段
五月の終わりの夜は、少し肌寒かった。
昼間は汗ばむほどだったのに、日が落ちると急に空気が痩せる。ひだまり荘の廊下には、誰かの晩飯の匂いが漂っていた。醤油を焦がした匂い。焼いた肉の脂。どこかの部屋ではテレビの笑い声が響いている。
坂本栄治は、灰色のスウェットの膝をさすりながら、ノートパソコンの前に座っていた。
ちゃぶ台の上には、半額シールの貼られた鯵の南蛮漬けと、小さな肉じゃが。それに安い発泡酒。
栄治は箸で玉ねぎをつまみ、口へ運んだ。
甘い。
少し煮崩れたじゃがいもが舌の上でほどける。
「うまいなぁ……」
誰もいない部屋で呟く。
パソコンからは映画の予告編が流れていた。
暗い病室。
痩せた老人。
白い蛍光灯。
そして低い声。
「不要な手足は、切り落とすしかないんです」
栄治は眉をひそめた。
「なんだこれ……」
画面にはタイトルが映る。
『廃用身』
聞いたこともない映画だった。
若い俳優――染谷将太という名前らしい――が、無表情な顔で老人を見下ろしている。
栄治は発泡酒を飲んだ。
ぬるい苦味が喉を落ちる。
「怖ぇ映画作るなぁ……」
そのとき、ドアが鳴った。
「坂本さんー?」
三浦結衣だった。
「開いてる」
結衣はコンビニ袋を提げて入ってきた。
薄いカーキ色の上着に、白いTシャツ。今日は珍しくラフな格好だった。髪も下ろしている。
「何見てるんですか?」
「変な映画」
結衣は画面を覗き込み、
「あ、これ」
と言った。
「知ってるのか?」
「予告だけ話題になってました」
「嫌な話だな」
画面の中では、老人が機械みたいにベッドへ並べられていた。
誰かが言う。
「動かない人間に、そこまで必要ですか?」
栄治は黙った。
結衣も黙る。
部屋の中で、扇風機だけが低く回っていた。
しばらくして栄治が呟いた。
「いろんなこと考えるな、人間は」
「……ですね」
「昔はさ」
栄治は南蛮漬けをつついた。
「年寄りは知恵があるとか言われてたんだろ」
「はい」
「今はコストだからな」
結衣は返事をしなかった。
言い返せない。
実際、不動産屋でもそういう話は嫌というほど聞く。
高齢者はリスク。
孤独死。
認知症。
事故。
クレーム。
保証人問題。
数字と損害額ばかりが飛び交う。
栄治は発泡酒を飲み干した。
「不要な手足、か」
ぽつりと言う。
「怖いですか?」
「そりゃ怖いよ」
栄治は笑った。
だがその笑いは薄かった。
「脳梗塞やった時な」
「はい」
「左手、ちょっと動かなかったんだ」
結衣は黙って聞いていた。
「その時思ったよ。あぁ、人間って簡単に壊れるんだなって」
窓の外で、原付バイクが走り去る音がした。
夜風がカーテンを揺らす。
「動けなくなったら終わりだと思った」
「坂本さん……」
「誰にも迷惑かけたくねえしな」
栄治はそう言って笑った。
だが結衣は、少し苛立ったように言った。
「その考え、嫌いです」
「え?」
「迷惑かけたくないって、みんな言うじゃないですか」
「まあな」
「でも、人間って結局、迷惑かけ合って生きるしかないでしょう」
栄治は少し驚いた顔をした。
結衣は珍しく強い口調だった。
「子どもだって迷惑かけるし、お年寄りだってそうです」
「……」
「なのに年取った途端、“迷惑になる前に消えろ”みたいになるの、おかしいです」
部屋の空気が静かになる。
栄治はしばらく何も言わなかった。
それから、小さく笑った。
「熱いな、お前」
「熱くもなりますよ」
「若いなぁ」
「茶化さないでください」
二人は少し笑った。
栄治はちゃぶ台の上の南蛮漬けを結衣の方へ押した。
「食うか?」
「いただきます」
結衣は箸で鯵を取った。
小ぶりな身に甘酢が染みている。
「おいしい」
「日本海の鯵だ」
「また萩ですか」
「萩だ」
栄治はどこか誇らしげだった。
「鯖も鯵もうまいぞ」
「いいなぁ、行ってみたい」
「もう変わっちまってるだろうけどな」
栄治は窓の外を見る。
遠い夜を思い出しているようだった。
「昔はなぁ、蚊帳の中に蛍飛ばしてな」
「前言ってましたね」
「カエルがうるさかった」
「ふふ」
「でもああいう夜は、ちゃんと人間だった気がする」
結衣はその言葉を聞いて、少し胸が痛くなった。
ちゃんと人間。
その言葉が、今の社会では難しくなっている気がした。
効率。
採算。
リスク。
役に立つか。
立たないか。
いつの間にか、人間に値段がつけられていく。
栄治は、ぼんやり映画の停止画面を見た。
そこには無機質な病室が映っている。
「でもな」
「はい」
「俺、まだ鯵うまいと思えるんだよ」
結衣は顔を上げた。
「遠藤さくら見て、かわいいなぁって思うし」
「まだ言いますかそれ」
「思うんだから仕方ねえだろ」
二人で笑った。
栄治は湯呑みに残った冷めた茶を飲んだ。
「だったら、まだ不要じゃねえんじゃねえかな」
その言葉は小さかった。
けれど確かだった。
外では五月の風が吹いていた。
古いアパートの窓明かりが、夜の中にぽつぽつ浮かんでいる。
そのひとつに、坂本栄治の部屋の灯りも混じっていた。




