第32話 蚊帳の中の蛍
第32話 蚊帳の中の蛍
五月の雨は、音がやさしい。
ひだまり荘の古いトタン屋根を、ぱたぱたと細かな雨粒が叩いていた。窓の外は薄暗く、濡れたアスファルトが鈍く光っている。
坂本栄治は、六畳間のちゃぶ台の前で湯呑みを両手に包んでいた。
灰色のスウェットに、洗いすぎて柔らかくなった紺色のカーディガン。風呂上がりらしく、髪は少し寝癖がついている。
ちゃぶ台の上には、焼いた鯖、小鉢の筍煮、それに豆腐とわかめの味噌汁。
鯖の脂の匂いが、部屋にゆっくり広がっていた。
「いい匂いですねぇ」
三浦結衣が鼻をひくつかせた。
今日は仕事帰りではなく、私服だった。白い長袖シャツに、ゆるいカーキ色のパンツ。濡れた傘を玄関に立てかけながら、部屋へ入ってくる。
「山口の鯖だ」
栄治は少し得意そうに言った。
「スーパーで見つけたんだよ。日本海の鯖はうまい」
「詳しいんですね」
「俺、山口なんだ。萩市」
「へえ」
結衣は味噌汁の湯気を見ながら座った。
「萩って歴史の町ってイメージです」
「あぁ、観光はそうだな」
栄治は箸で鯖をほぐした。
白い身から脂がじわりと滲む。
「でも俺はなぁ、飯の記憶の方が強い」
「飯?」
「筍とかな。鯵とか鯖とか」
口に運ぶ。
塩気と脂が舌に広がり、栄治は目を細めた。
「日本海の魚は小ぶりだけど身が締まってるんだ」
「おいしそう」
「うまいぞぉ」
結衣も鯖をひとくち食べた。
「わ、本当だ。脂すごい」
「だろ?」
雨音が少し強くなる。
窓の外では、どこかの部屋の換気扇が低く唸っていた。
しばらく二人で黙って食べていたが、ふいに結衣が聞いた。
「坂本さんって、子どもの頃どんな感じだったんですか?」
栄治は味噌汁をすすった。
湯気が老眼鏡を曇らせる。
「んー……」
少し考える。
「楽しかったことって、あんまり覚えてないんだよな」
「そうなんですか?」
「働いてばっかだったしな。昔のことなんて大体忘れた」
だが、そのあと栄治はふっと笑った。
「でもなぁ」
「はい」
「蚊帳の中に蛍飛ばしたのは覚えてる」
結衣が目を丸くした。
「え、すごい」
「田舎だったからな」
栄治の目が、少し遠くを見る。
「夏になると、蚊帳吊るすんだよ。緑色の古いやつ」
「はい」
「その中に蛍入れるんだ」
雨音の向こうに、遠い夜の記憶が浮かぶ。
湿った土の匂い。
川の水の冷たさ。
裸足の裏にくっつく泥。
「光るんですか?」
「ぽう、ぽうってな」
栄治は指で小さく円を描いた。
「暗い蚊帳の中を飛ぶんだ。きれいだったなぁ」
その声は、少し子どもみたいだった。
「外じゃカエルが鳴いててな」
「いいなぁ……」
「田植えした後の苗が、風でさわさわ揺れるんだよ」
栄治は窓の外を見る。
今見えるのは、濡れた駐車場と電柱だけだ。
だが彼の目には、昔の田んぼが見えているようだった。
「星空もすごかった」
「萩ってそんな田舎だったんですね」
「今は知らんけどな。俺がガキの頃は真っ暗だった」
結衣は箸を止めて聞いていた。
「なんか……映画みたい」
「いや、蚊だらけだぞ」
「ふふ」
「カエルもうるさいし」
「でも楽しそうです」
栄治は少し黙った。
それからぽつりと言った。
「……ああいう時間が、一番贅沢だったのかもな」
部屋の空気が少し静かになる。
味噌汁の湯気だけがゆっくり揺れていた。
「坂本さん」
「ん?」
「帰りたいって思います?」
「萩にか?」
「はい」
栄治は苦笑した。
「帰る場所なんかもうねえよ」
その言葉は淡々としていた。
「家もないし、親も死んだし、同級生もどこいるかわからん」
「……そっか」
「でもまぁ」
栄治は窓の外を見た。
「腹の記憶だけは残るんだよな」
「腹の記憶」
「筍の匂いとか。焼いた鯵とか。炊き立ての飯とか」
ちゃぶ台の上の筍煮を箸でつまむ。
薄茶色の煮汁が光る。
「食いもんって、不思議だよな」
「なんでです?」
「その時の景色まで思い出す」
結衣は静かに頷いた。
栄治はまた話し始める。
「親父が縁側で鯖焼いてな」
「はい」
「煙がもうもう出るんだ。近所の猫が寄ってきて」
「ふふ」
「母親がうるせえ!って怒鳴って」
栄治は笑った。
その笑顔は、今までで一番やわらかかった。
結衣はその顔を見て、少し安心した。
この人はちゃんと、昔を愛している。
全部つらかったわけじゃない。
ちゃんと、美しい夜を知っている人なんだと思った。
雨は少し弱くなっていた。
どこかで原付バイクの音がする。
古いアパートの廊下を、誰かがぱたぱた歩いていく。
栄治は湯呑みを持ち上げた。
「今度な」
「はい」
「鯵、焼いてやるよ」
「本当ですか」
「萩の食い方でな」
結衣は笑った。
「楽しみにしてます」
窓の外では、五月の夜が静かに深くなっていた。




