表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
老人  作者: かおるこ
PR
35/77

第32話 蚊帳の中の蛍

第32話 蚊帳の中の蛍


 五月の雨は、音がやさしい。


 ひだまり荘の古いトタン屋根を、ぱたぱたと細かな雨粒が叩いていた。窓の外は薄暗く、濡れたアスファルトが鈍く光っている。


 坂本栄治は、六畳間のちゃぶ台の前で湯呑みを両手に包んでいた。


 灰色のスウェットに、洗いすぎて柔らかくなった紺色のカーディガン。風呂上がりらしく、髪は少し寝癖がついている。


 ちゃぶ台の上には、焼いた鯖、小鉢の筍煮、それに豆腐とわかめの味噌汁。


 鯖の脂の匂いが、部屋にゆっくり広がっていた。


「いい匂いですねぇ」


 三浦結衣が鼻をひくつかせた。


 今日は仕事帰りではなく、私服だった。白い長袖シャツに、ゆるいカーキ色のパンツ。濡れた傘を玄関に立てかけながら、部屋へ入ってくる。


「山口の鯖だ」


 栄治は少し得意そうに言った。


「スーパーで見つけたんだよ。日本海の鯖はうまい」


「詳しいんですね」


「俺、山口なんだ。萩市」


「へえ」


 結衣は味噌汁の湯気を見ながら座った。


「萩って歴史の町ってイメージです」


「あぁ、観光はそうだな」


 栄治は箸で鯖をほぐした。


 白い身から脂がじわりと滲む。


「でも俺はなぁ、飯の記憶の方が強い」


「飯?」


「筍とかな。鯵とか鯖とか」


 口に運ぶ。


 塩気と脂が舌に広がり、栄治は目を細めた。


「日本海の魚は小ぶりだけど身が締まってるんだ」


「おいしそう」


「うまいぞぉ」


 結衣も鯖をひとくち食べた。


「わ、本当だ。脂すごい」


「だろ?」


 雨音が少し強くなる。


 窓の外では、どこかの部屋の換気扇が低く唸っていた。


 しばらく二人で黙って食べていたが、ふいに結衣が聞いた。


「坂本さんって、子どもの頃どんな感じだったんですか?」


 栄治は味噌汁をすすった。


 湯気が老眼鏡を曇らせる。


「んー……」


 少し考える。


「楽しかったことって、あんまり覚えてないんだよな」


「そうなんですか?」


「働いてばっかだったしな。昔のことなんて大体忘れた」


 だが、そのあと栄治はふっと笑った。


「でもなぁ」


「はい」


「蚊帳の中に蛍飛ばしたのは覚えてる」


 結衣が目を丸くした。


「え、すごい」


「田舎だったからな」


 栄治の目が、少し遠くを見る。


「夏になると、蚊帳吊るすんだよ。緑色の古いやつ」


「はい」


「その中に蛍入れるんだ」


 雨音の向こうに、遠い夜の記憶が浮かぶ。


 湿った土の匂い。


 川の水の冷たさ。


 裸足の裏にくっつく泥。


「光るんですか?」


「ぽう、ぽうってな」


 栄治は指で小さく円を描いた。


「暗い蚊帳の中を飛ぶんだ。きれいだったなぁ」


 その声は、少し子どもみたいだった。


「外じゃカエルが鳴いててな」


「いいなぁ……」


「田植えした後の苗が、風でさわさわ揺れるんだよ」


 栄治は窓の外を見る。


 今見えるのは、濡れた駐車場と電柱だけだ。


 だが彼の目には、昔の田んぼが見えているようだった。


「星空もすごかった」


「萩ってそんな田舎だったんですね」


「今は知らんけどな。俺がガキの頃は真っ暗だった」


 結衣は箸を止めて聞いていた。


「なんか……映画みたい」


「いや、蚊だらけだぞ」


「ふふ」


「カエルもうるさいし」


「でも楽しそうです」


 栄治は少し黙った。


 それからぽつりと言った。


「……ああいう時間が、一番贅沢だったのかもな」


 部屋の空気が少し静かになる。


 味噌汁の湯気だけがゆっくり揺れていた。


「坂本さん」


「ん?」


「帰りたいって思います?」


「萩にか?」


「はい」


 栄治は苦笑した。


「帰る場所なんかもうねえよ」


 その言葉は淡々としていた。


「家もないし、親も死んだし、同級生もどこいるかわからん」


「……そっか」


「でもまぁ」


 栄治は窓の外を見た。


「腹の記憶だけは残るんだよな」


「腹の記憶」


「筍の匂いとか。焼いた鯵とか。炊き立ての飯とか」


 ちゃぶ台の上の筍煮を箸でつまむ。


 薄茶色の煮汁が光る。


「食いもんって、不思議だよな」


「なんでです?」


「その時の景色まで思い出す」


 結衣は静かに頷いた。


 栄治はまた話し始める。


「親父が縁側で鯖焼いてな」


「はい」


「煙がもうもう出るんだ。近所の猫が寄ってきて」


「ふふ」


「母親がうるせえ!って怒鳴って」


 栄治は笑った。


 その笑顔は、今までで一番やわらかかった。


 結衣はその顔を見て、少し安心した。


 この人はちゃんと、昔を愛している。


 全部つらかったわけじゃない。


 ちゃんと、美しい夜を知っている人なんだと思った。


 雨は少し弱くなっていた。


 どこかで原付バイクの音がする。


 古いアパートの廊下を、誰かがぱたぱた歩いていく。


 栄治は湯呑みを持ち上げた。


「今度な」


「はい」


「鯵、焼いてやるよ」


「本当ですか」


「萩の食い方でな」


 結衣は笑った。


「楽しみにしてます」


 窓の外では、五月の夜が静かに深くなっていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ