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老人  作者: かおるこ
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第31話 遠藤さくらと焼き鮭の夜

第31話 遠藤さくらと焼き鮭の夜


 五月の夕方は、不思議な匂いがする。


 昼間の陽射しで温まったコンクリートの熱気と、どこか湿った土の匂い。ひだまり荘の前に植えられた小さなツツジはすっかり花を落とし、青臭い葉だけが風に揺れていた。


 二〇三号室では、坂本栄治が畳の上に腹這いになっていた。


 白いランニングシャツに、薄いグレーのステテコ。風呂上がりなのか、短くなった白髪がまだ少し湿っている。


「おぉ……」


 栄治は、目尻を思いきり下げた。


 ノートパソコンの画面では、派手な照明がきらきら瞬いている。長いランウェイを、若い娘がゆっくり歩いていた。


 白い衣装。すらりとした脚。照れたような笑顔。


「かわいいのぉ……」


 栄治は頬を緩ませる。


 画面の文字には、「マイナビ東京ガールズコレクション」と出ていた。


 意味はよくわからない。


 だが、とにかくこの娘が可愛かった。


「遠藤さくら……ええ名前だなぁ」


 栄治は、まるで孫を見る老人のような顔をしていた。


 動画が切り替わるたび、何度も巻き戻す。


「ムフフフ♡」


 思わず変な笑い声が出る。


「この子、品があるなぁ」


 画面の中で遠藤さくらが笑うたび、栄治の顔も緩む。


「最近の若い子はようわからん思ってたけど、この子はええな」


 そのとき、


 コンコン、


 とドアが鳴った。


「坂本さん?」


 三浦結衣の声だった。


 栄治は飛び起きた。


「うおっ!」


 慌ててパソコンを閉じる。


「な、なんだ!」


「なんでそんな慌ててるんですか」


「慌ててねえ!」


 ドアを開けると、結衣がコンビニ袋をぶら下げて立っていた。


 今日はベージュの薄いジャケットに黒のパンツ。髪を後ろでひとつに結んでいる。外回り帰りらしく、少し汗ばんでいた。


「近く寄ったので」


「毎回来るな、お前」


「嫌そうに言わないでください」


 結衣は笑いながら部屋へ入る。


「うわ、なんか今日むしむししますね」


「あぁ。五月なのに夏みたいだ」


 扇風機がぶうん、と鈍い音を立てていた。


 結衣は袋を机に置く。


「今日は冷やし中華です」


「おぉ」


 透明な容器の中に、細い麺。錦糸卵。ハム。きゅうり。紅しょうが。


 それと、小さなパックの焼き鮭おにぎり。


「うまそうだな」


「スーパーの半額です」


「最高だな」


 結衣がふとノートパソコンを見る。


「あれ、動画見てたんですか?」


「いや別に」


「怪しい」


 結衣は勝手にパソコンを開いた。


「あっ」


 画面いっぱいに遠藤さくら。


 数秒、沈黙。


 それから結衣が吹き出した。


「ぶふっ!」


「笑うな!」


「坂本さん、アイドル好きなんですか!?」


「違う!」


「絶対好きじゃないですか!」


「違う違う! たまたま見ただけだ!」


「顔が完全にデレデレしてますよ!」


 栄治は耳まで赤くなった。


「いや……でも可愛いだろ」


「まあ可愛いですけど」


「なんかこう……いいんだよ」


「恋ですか?」


「違うわ!」


 栄治は本気で否定した。


「そんな歳じゃねえ」


「じゃあなんなんです?」


 栄治は少し考えた。


 窓の外では、小学生がまだ騒いでいる。どこかの部屋から味噌汁の匂いが漂ってきた。


「孫みたいなんだよな」


 結衣は少しだけ真顔になった。


「……坂本さん、子どもいませんでしたもんね」


「あぁ」


 栄治は冷やし中華の蓋を開けた。


 酸っぱいタレの匂いがふわっと立つ。


「若い頃は仕事ばっかだったからなぁ」


「後悔してます?」


 栄治は箸を動かしながら笑った。


「してねえ……とは言えんな」


 細い麺をすする。


 冷たい。


 酸味が喉を通っていく。


「和美とも、今度だ今度だ言ってるうちに歳取っちまった」


 結衣は静かに頷いた。


 しばらく二人で黙って食べた。


 扇風機の音だけが部屋に回っている。


 やがて結衣がぽつりと言った。


「でも坂本さん、最近楽しそうですよ」


「そうか?」


「はい。最初ここ来たとき、ずっと怒ってましたもん」


「そりゃ怒るだろ。どこ行っても断られて」


「今はなんか……普通のおじさんです」


「なんだその評価」


「動画見ながらニヤニヤしてるし」


「やめろ」


 二人で笑う。


 栄治はその笑い声を聞きながら、ふと思った。


 前の家には音がなかった。


 時計の針と冷蔵庫のモーター音だけ。


 妻が死んでから、家は静かすぎた。


 だが今は違う。


 古いアパート。


 六畳一間。


 安い扇風機。


 半額の冷やし中華。


 それでもここには、人の気配がある。


「坂本さん」


「ん?」


「今、幸せですか?」


 栄治は少し驚いた。


 それから、焼き鮭おにぎりをひとくち齧る。


 塩気がじんわり舌に広がった。


 窓から入る五月のぬるい風。


 結衣の笑い声。


 遠藤さくら。


 夕暮れの匂い。


 全部が小さく混ざっていた。


「……まあ、悪くねえな」


 結衣は静かに笑った。


 外では、日がゆっくり暮れ始めていた。



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